Friday, September 16, 2022

Emptiness

I have been having a lot of thinking.  (Dupuis deux ans)

I feel like writing and thinking in English on this (Parce que je me rend compt que c'est plus difficile a ecrire mais agreable pour mon coeur que en Japonais, mon langue)

I've spent so many years doing research.  Initially driven by passion and a good cause, motivated and excited by the progress and development of new scientific discoveries, I hoped to contribute to the field and establish my niche.

I realized that the field was vast.  Few cares what you do unless it makes money.  After all, money is the biggest motivation for a majority of people.

Then, I started working for money....and then, voila, my passion and enthusiasm are gone.

I wrote research proposals for money.  I killed animals for money.  But the money doesn't come easily. 

I have no regrets about leaving academia, and what will become of academic research in the future is no longer my concern.

I simply feel that I have done with my piece of life and feel empty.

The emptiness has always been there, though.  I have been filling it with different kinds of things that I thought are important but not really that important.  

I am trying to keep the emptiness unfilled.  but not sure I'll be successful on that...

Monday, February 22, 2021

 ここに書き込むのはほぼ10年ぶりだ。十年ちょっと前に最初の大型グラントがもらえて研究室を立ち上げた。いろいろ苦労して、それなりにやってきて三年前ほどからスランプに陥った。人間関係、健康問題、そして昨年はコロナ、というわけで、いろいろと限界を感じさせられる中、必死に足掻いて、なんとかグラントの更新申請にこぎつけた。

その結果がさっき出たのだが、点数もつかない評価であった。いろいろ努力して、できるだけのことをやったが、研究というものは、がんばれば思うような結果がでるわけではない。半分以上は運だと思う。しかし、運であろうとなかろうと、結果によって判断されるというルールなのだから仕方がない。そしてタイムリーによい予備データが出ないとゲームオーバーだ。それは十二分に理解した上で、かなり前から準備をし予備実験を重ねた結果がこうなったということだ。

これを再提出するか、新しい申請として出すか、とりあえずはやってみるつもりだが、この一年の苦難のあとで気持ちが前向きに切り替わらない。この一年、コロナで仕事は進まず、その数ヶ月の施設閉鎖の間は精神に来た。休みもとれず、帰省もできず、それでも頑張ったが、結果がこうだった。正直、やってられないという気持ちだ。研究が楽しいと思えなくなってきた。同じ分野の論文を読んでも面白いと思えなくなったことに気づいた。こういう論文を書いている方はどうなのだろうと思う。少しでも面白いと思っているのだろうか。(とてもそうは思えないような研究ばかり)

楽しくなくなってきた研究に半分の時間を費やして、あとの半分以上は金の工面のことを考えている。なんとバカげたことかと思う。自分のやっていることが意義のあることと思えなくなったら、辞めどきだなと感じる。

やめ時なのだろう。医学生物学研究にこれからもブレークスルーはおこるだろうが、それは十万の仕事に一つぐらいのものだろう。自分がやった二、三の論文はその狭い分野で、それなりに評価はされたが、それは大洋の一滴にしか過ぎない。残りの人生を大海にもう一滴を加えるためだけに使うべきではないだろう。その一滴にこれまで犠牲にしてきたものも多いのだ。

負け惜しみに聞こえるかも知れないが、もはや研究に残りの人生をかけてまでやる意義を見いだせないような気がする。

若い時は人生は洋々たる未来が開けているような気がした。もう若くなく、未来はつねに死という航海の終わりに縁取られている。研究についやした時間が無駄であったとは思わない。それで家族メシを食ってきたし。楽しいことも多かった。何より世界中に知り合いができて、彼らが数少ない友人でもあった。多分、研究室を離れてさびしく思うとしたら、その繋がりがなくなってしまうことだろう。

昔から、晩年は田舎で一人暮らしして犬と畑の生活をしたいと思っていた。それは研究生活とは両立しないものである。その実現は困難かもしれないし、本当にそれで満足できるかは極めて疑問だ。しかし、もう金のことばかりを考えて研究するのも、金のために研究成果に一喜一憂するのも、うんざりだ。終わりを決めて、そして満足して、研究室を去ろうと思う。


Wednesday, April 6, 2011

三の巻き(1)

3-11-2011に大地震と津波が東北地方東海岸を襲った。2万人以上の人が災害で死んだ上に、福島第一原発の原子炉が破壊され、冷却機能を失って、大量の放射性物質が世界中にばらまかれた。それから3週間余りが経った今も事態は収束にはほど遠い。
地震の後から、気持ちが落ち着かず、研究活動に集中できないでいる。誰でもそうだろう。崩れ行く日本という国家にとどめを指す災害だと思った。
喰って行けなくなったら、日本に帰れば良い、そういう気持ちもあったからこそ、グラントの切れ目が職の切れ目となるようなリスクの高い専業研究者でメシを喰ってきた。その不安定な立場は何年経っても変らない。
この災害で、その安心の拠り所であった「日本に帰ればなんとかなる」という命綱をブツッと切られた、そんな気がした。これからは足を踏み外したら、ひょっとしたら本当に終わりかもしれない。
 実はそれどころではないかも知れない。放射能は日本を広く多い、農作物、近海魚は放射線のために出荷停止となった。外国は日本からの輸出を停止した。下請けに依存する大企業も軒並み影響を受けた。食料自給率が低く、食料を外国に依存してきた日本は、貧乏になって、食料も買えず、かといって、放射能にまみれた耕作地で自給率を上げることも難しくなった。大量の失業者が出て、食料危機が起こり、東北の経済と土地は壊滅することになるだろう。つまり、日本そのものが一気に沈没して消滅してしまう可能性さえでてきた、と思う。

Thursday, December 10, 2009

二の巻き(2)

東京への出張が終わって、実家にも数日立ち寄って、最後にもう一度東京の郊外の大学の工学部でセミナーをする。自分の研究を誰かが面白いと思ってくれるかどうか、セミナーの意味はそれに尽きる。自分の研究のことは自分がもっとも良く知っている。世界標準でどの当たりかもわかるから、いつも上を目指してやっているので、満足するということがない。それでも、自分が何かを見つけてわくわくしたり、面白いなあ、と思う部分もあって、そのあたりを、他の人にもちょっとでも分かってもらえて楽しんでもらえたらよいなあ、といつも考えながら話をしているつもりだ。しかし、こういうセミナーや発表は、研究活動のオマケみたいなもので、できるだけ少ないにこしたことはない。そういう交流はフィードバックが得られて役に立つ部分もあるが、研究時間との引き換えになっているという点において、多くの場合でペイしない。今回は休暇のついでであったので差し引きプラスと言ってもよいかも知れない。
 工学部で生物学をやるというのは厳しいものがある。学生は卒業したからといって、資格がとれるわけではなく、この世知辛い世の中、卒業の一年以上も前から就職の心配ばかりをしている。そんな学生や院生に頼って研究をしなければならず、彼らに論文を書かせて、無事に卒業なり、学位なりを世話しないといけないのだから、教官側は大変だ。研究において、品質と量を両立させるのは不可能である。やれば結果が必ず出るというものでもない。研究指導はするが、結果に責任はもてない、という当然のことが、若い人やその親に簡単に理解してもらえるとは思えない。卒業できなかったら、学費は何のために払ったのだ、と思うのが、資本主義社会で若い時から育った最近の若者やその親である。若い人々が周りにいるというのはうらやましいが、彼らや彼らの親の期待に沿ってやりたいと思うプレッシャーはかなりのものだろう。

Saturday, November 28, 2009

二の巻(1)

去年のクリスマスの日、これを書き出した。田舎の中都市の駅の裏にある、ひなびたホテル、というよりも旅館といった方がよいような、宿泊所のベッドの上だった。何もかも気に入らなかった。大学も、その街の様子も、レストランも、駅前の百貨店も大学方面へ支線を出している一時間にニ本の単線電車も。どんよりした気分でその街を後にした。
 今年もまもなく十二月になる。東京駅前のホテルで去年のことを少し思い出しながら、書き出した。去年のあの侘しさに比べれば、今年は全然ましだ。その田舎町へは行く予定はないし、まだ東京について2日目だということもある。今日の研究会の席では、久しぶりに会った昔の大勢の顔見知りや、仕事を通じて名前は知っているというような人といっぱい話をして、愉快に過ごした。ホテルの31階の部屋もまずまず快適だ。一方、日本の社会に余り明るいニュースはない。 経済危機を迎えた後、政権交代を迎え、そして前政権から引き継いだ赤字を何とかするため、厳しい予算編成を予定する現政権の経済政策に、研究界も戦々恐々としている。それでも、少なくとも東京駅の周辺は知る限り、昔と同じような人が、昔と同じような密度で歩いていて、駅前のモールや飲食店の賑わいも変化したようには見えない。田舎にいけば、不景気はもっと顕然化するのだろうか。
 研究会での人々との交流は、社会での居場所みたいなものを感じられて心地よい。自分は未だに社会の人々とのしがらみみたいなものが嫌いで、いつも根無し草のようにふらふらしているのが性に合っていると思うのだけど、人間である以上、一人では生きられないし、根無し草でも一瞬一瞬はその環境と有機的な関係をつくり出しているのである。だから、自分を仕事の上であれ、私生活の上であれ、認めてくれる人と一緒にいられるということは、間違いなく幸せなことだと思う。それがニッシュというものだろう。自分にとっては、そのニッシュがむしろより流動的である方がより快適に感じられるような気がする。いつまでそうなのかわからないけど。
 田舎の大学に赴任した教授に定年がきたら将来どうするかというような話をした。その人にとって、その田舎町に対して愛着があるわけではない。子供はもうすぐ独立する。定年になったら、自分の育った所か大学時代を過ごした東京かに移ろうかと思っていると言う。別に教授の後に学長をやったり、病院長になったり、そういうことに興味は無いし、自由に暮らしたい。医者にも研究にもそう未練はないと言う。大学教官にとっての住む世界とはそんなものだ。大学を離れて一般社会の中に濃い人間関係が生まれることはまず無い。大学と家族、研究関連の同業者、それが社会との繋がりの殆どである。
 自分にとっては、家族との繋がり以上に大切なものはないと思う。仕事の上で認められたり、その社会の中での人との交流することは、楽しいことだけれども、それは、流動的であって構わない。もし自分が同業の他の人々とつき合うに価するような仕事ができないのであれば、その社会は居心地の悪いものになっていくだろう。家族との関係は流動的であって欲しくないと、勝手だけれでも、思う。子供の時から、住んでいる土地の人々になじめなくて、中学から遠方の学校に通っていたので、自分と故郷に人間的な強い関係はない。少し自転車で遠出をしたらふんだんにあった山や小川や田んぼのあぜ道や森や林へ一人で出かけて、一人でうろうろして休みの日を過ごすことが多かった。親は仕事で急がしかったし、近所にはもう友だちはいなかった。ずっと、早く遠い所に行きたい、と小学生の頃から思っていた。一人になりたいとずっと思っていた。
 自分に子供ができて、子供に対する愛情を感じるようになると、自分自身が親にとってきた冷たい態度がなんとも申し訳ないように思う。子をもって初めて分かる親の恩、というやつだ。人間関係を含むニッシュが流動的であることが快適と思っていた自分にとって、今、子供たちの笑顔を心に思い描くと、いつかは、子供たちとの別れがやってくることを考えると、昔しょっちゅう悩まされた心の痛みを感じる。

Thursday, May 14, 2009

一の巻(15)

 大学教官が学生教育をその最も重要な任務だと思っているような大学は、結局、ろくな教育はできない。大学の教育というのは義務教育での教育とはそもそも質の違うものだからだ。まして大学院にでもなれば、大学院生あいてに教育という言葉を使うことさえ、不適切だと思う。大学院生のためにすべきことは、彼ら自らが研鑽を積むための環境を与えることである。私は大学学部の教育もそうあるべきだと思う。特にインターネットがこれだけ発達した世の中となった今では、知識を伝達することを主たる目的としていた従来の教育の価値は限りなく低い。知識そのものは殆ど無料で簡単に手に入るようになった。だから大学での教育は知識の伝達ではなく、その理解を手助けすることであると思う。そういう観点から見ると、もっとも効果的な教育とは、大学教官が第一線の研究者として活動する生の姿をみせることに優るものはないと思う。故に、教育を言い訳に研究活動をおろそかにするようでは本末転倒ではないかと思うのである。教育ビジネスとしてではなく、本来のアカデミアの場としての大学を保つためには研究第一でなければならないと思う。研究が優れていれば、自動的に優秀な学生が集まり、優秀な学生が研究を自主的に進めていく。その軌道が極端にはずれないように、見ておくのが指導者がすべきことである。よって、研究が進まないからと言って、二流大学がその存在意義を教育に求めるようになれば、すでに病膏肓、つける薬がないと言わねばならぬ。二流大学であるからこそ、研究の重要性をもっと考えねばならない。それが唯一、二流大学を脱する道だからである。二流大学で一流の研究をするのは容易ではない。そのことは十分わかる。使えるリソース、金、人、一流と二流を分けるもののうち、物質的な差、労働力の差が九割を占めるといえる。しかし、他に道はない。一流大学と同じ土俵に上がって、ガチンコ勝負で勝つ、それしかないのである。

(しばらく、忙しいので、悪口を書いている時間がありません。次回のUPの予定は未定です)

Monday, May 11, 2009

一の巻(15)

日本人が都会へ集中することは、結構これに近い屈折した心理があると思う。都会の狭いところで、都会に住む事の不自由さをぶつぶつ言う隣人たちの中で、自分もぶつぶつ不平を言いながら暮らすのが好きなのだ。大学もそれに近いものがあると思う。研究したいがために安い給料で大学に残るのだと思うのだが、中には、大学の下らない雑用に忙殺されるのを喜ぶ人もいる。それを研究が進まないことの言い訳にする。そして、ますます、雑用にはまり込み、ますます研究から遠ざかって、急に教育に熱意を燃やし出したりして、周囲のまともな人に迷惑をかけたりまでするのである。中島義道は、大学はそこに職を求める者が利用する場所であり、自分の好きな事をする権利を手に入れるためのものである、と言ったが、(こう公衆の面前で堂々と本音を吐くと、嫌われると思うのだが、どうみても彼は、人から嫌われることに必要以上の耐性ができてしまっているようである。この耐性は後天的なもののように見える)、もちろん、大学に限らず、職場というのは本来そうしたものなのである。

Thursday, May 7, 2009

一の巻(14)

その1メートル四方の箱には、宝くじを売るという目的に必要な機能が驚くべき精密さで詰め込まれている。欠けているのは、肝腎の宝くじを売る人が快適に宝くじ売りという仕事を遂行するための機能である。この宝くじ売りの狭い箱を見る人の少なからずが狭い鳥かごに詰め込まれて卵を生み続ける鶏を思い浮かべるであろうと想像する。限られた歩道の空間で宝くじを売るという機能のために、その人は狭い箱の中で我慢をしていると私には見える。箱をもう少し広くすれば済むことなのだ。あるいは箱ではなく、ちゃんとした宝くじ売り場のオフィスをつくればよい。歩道が狭いなら拡げれば良い。日本には土地がないから、狭いのは仕方がないという。それはウソだと私は思う。ちょっと田舎にいけば、車が無ければ食料も手に入らないような所はいっぱいある。土地を売って人よりも余計に金儲けをしたい人が、居住空間を切り刻んで、切り身にして高い単価で売りつけようとするから、都会の土地や家の値段が高くなりすぎるのである。しかも、不思議な事に日本人はその狭くて住みにくい場所へ自ら進んで住みたがる。こんな冗談を思い出した。

ストレスが溜まってノイローゼ気味の人がニューヨークへ引っ越した。
なぜなら 、
ニューヨークに住めば、ストレスとノイローゼの理由ができるから。

Monday, May 4, 2009

一の巻(13)

日本の都市や家や大学システムを設計する人は、人は何のために生きているのか、考えているのだろうか?こうした構造物が本来、何のためにあるのか分かっているのだろうか?家を建てる人は少ないコストで最大限の機能を持たせることを考えて設計する。車をつくる人は小さな空間を出来るだけ拡げようとする。だから、地震になると住人は押しつぶされ、火事では一酸化中毒で死に、軽四輪車の交通事故では容易に死亡するのである。家を建てる人は「家を建てる」という目の前の目標しか見ていない(日本の社会がそれ以上を見ることを阻むのである)その家に住む人が、どのように生活をし、どのように自らの生の目標を達成していくのか、そしてそのために建てた家がどのように役立つのか、そんな人間の道具としての家という視点が欠けている。日本のシステムというのは、人のためにシステムを変えていくという発想がなく、むしろ、人をシステムにあわせようとする。だから、一見、極めてムダがないように見えるのである。そのことを、晴海通りの宝くじ売りのボックスを見て感じたのであった。一メートル四方もないような箱が歩道におかれていて、全面の上半分は窓になっている。中には初老の女の人が座っているのである。冬の寒い日で、どうも膝掛けやカイロなどで暖を取るのであろうが、私には飛行機のエコノミークラスで太平洋を横断する以上の拷問であろうと思えた。立つ事も出来ない小さな箱の中で、その人の一日が過ぎていくのである。

Thursday, April 30, 2009

一の巻(12)

この地で、「人は城、人は石垣、人は堀」という言葉を知らない人はいない。大学にとって優秀な研究者は財産であるという考えを日本の二流大学は受入れることができない。だから一流になれないのだ。よい花を咲かせようとすれば、肥料や水やりは欠かせない。よい土を入れて日当りのよい場所に植えて、水やりや肥料を欠かさず、世話してはじめて、よい花が咲くのである。日本の二流大学には、そもそも、よい花を咲かせようというような良心のアカデミズムというものがない。花が咲こうと咲くまいと知った事ではない、花壇はあるのだから、枯れたら、違うのに植え替えればよい、としか思っていないのである。だから、いつまでたってもよい花が咲かないのである。

Monday, April 27, 2009

一の巻(11)

日本に欠けているものは、余裕とか遊びとかである。ムダな空間や時間である。日本人の効率主義で、ムダな時間や空間は本当に無くすべき「ムダ」であると思っているのではないだろうか。だから、あれほど、建築物が醜いのである。限られた空間に、家が家として機能出来るぎりぎりの設計でものを建てるから、ああなるのだ。確かに家としての機能、つまり、夜露を防ぎ、生命活動を維持するだけの空間を与えることは出来ている。しかし、それだけである。だから貧しい。人はそんな家では生きることはできても、生活を楽しむことはできない。都市もそうである。都市を歩いて景色を楽しむように設計されていない。そこには、働く人々が昼間、仕事をするという機能を果たせるぎりぎりのスペースが確保されているに過ぎない。楽しく仕事をするとか、楽しく生活するとかという発想がないのである。教官選考もそうである。それを人との出会いであり、学問的啓発を得る機会と捕えようという発想がない。知らない同業の研究者と食事にいって情報交換をし、ネットワーキングしようという発想がない。教授を選考するのに最小限のリソースしかなく、候補者は、仕事をもとめる失業者で、大学は就職を世話してやる職業安定所だというような発想なのである。つまり、やとってやるという態度なのである。

Thursday, April 23, 2009

一の巻(10)

はっきり言って、なぜ、この大学が二流大学であるのか、よく理解できた発表会であった。しかし、自分の業績からは、二流大学にしかチャンスがないのは分かっているので、ちょっと気分の滅入る面接となった。もしオファーが貰えても、ここで二流の研究者として、糊口をしのぐためだけに就職するぐらいなら、お医者さんに戻って地域医療に貢献する方が上である。きっとその方が世の中のためになりそうな気がする、そう思った発表会であった。(一度だけなら多くの事柄は経験に値する、とポジティブに考えることにする)
 その日の夜は、一人で土地のおいしいものでも食べて、ゆっくりするはずであった。少しタクシーに乗れば、温泉町もある。しかし、気分は暗く、日本の田舎町と田舎大学に対する後味の悪さだけが残って、楽しくすごそうという気持ちになれなかった。夜になると気温がさがってきた。この田舎町でも幹線沿いには、インドやスリランカから出稼ぎに来た人たちがやっている料理店が散在する。駅前には白人系の外国人もちらほらする。日本のこの規模に田舎町で外国人をみるなど、昔はなかったことである。不景気で東京から押し出されたのだろうか、などと考える。田んぼや畑の前の幹線道路で、客寄せのために、旗を振っているインド人の姿を見るのは悲しい。ある小学校の給食に、うどんとひじきとクロワッサンが出たという話を読んだことがあるが、田んぼと畑とインド人、という組み合わせも、パッとしない。空腹となってきたので、せめて、名物ほうとうでも食べて、暖まるかと思って、駅前のほうとう屋にはいると、「ほうとうは30分以上かかる」と言われて、がっくりする。極太麺なのでゆでて煮込むのにそれだけかかるのだそうだ。それで、15分でできるという「おざら」というのを注文した。同じような極太麺だが、煮込まないので多少早い。ゆでたら、水で「さらさら」とすすいで冷やすので、「おざら」というそうである。妙なことに、この冷たい麺を具の入った暖かいツケ汁につけて食べる。これは、どう考えてもおかしい。ツケ汁は生温くなり、麺は外側だけがヘンに暖かい。味付けはともかく、この生温さでは、おいしさ半減である。どうして釜揚げにしないのか、あるいは逆に冷たいタレにしないのか、と心の中で文句を言いながら食べる。食べ終わって、寂しい駅前をとぼとぼと昭和の匂いのするひなびた安ホテルに帰った。そして、この悪口を書き始めたのであった。

Monday, April 20, 2009

一の巻(9)

しかし、発表の後の質問では、私は、実際の現場の中の多少敵意さえ感じられる意地の悪い視線や質問に辟易とした。この忙しいときに興味のない教授選にわざわざ時間をさいて来てやっているのだ、という態度があからさまな若い教官もいる。その点、医学部長は大人で人の扱い方を知っている。こちらにしてもも、家族とのクリスマス休暇をキャンセルして、楽しんでもらえるような話をしようと、遠路はるばるやってきたのである。面接とは言え、お互い、歩み寄って、楽しいひと時を過ごせるように努力するのが、人としてのたしなみではないか。聴衆の多くはそこの大学教授で、臨床教授は余り私の話には興味がないという感じで、義理を果たすためにそこに座っているのだいう様子。基礎講座の二三の若手教授は、話に興味を持ってくれて、いい質問をしてくれた。応募教室の別の教官は、将来、私が教授になったりしたら、追い出されるかも知れないと警戒してか、アメリカのグラントは持って来れないだろうとか、日本の科研の申請経験はあるのかとか、Noの答えを期待して、聞いてきたが、彼の期待に反して、私が全部にYesと言ったので、中途半端に質問を打ち切ってしまった。もう一人の聴衆の若手教授は、私が教育のことに発表で触れなかったので、「教授選の発表で教育に触れないのでは教授候補として評価のしようがない」とチャレンジして来た。この人の経歴はインターネットで見て知っていた。イギリスでしばらく独立してやっていて、そこそこの仕事を出した「有能な」若手である。国内の事情しか知らないならともかく、海外での経験があるのだから、教官の選考がどういうものか知っているはずだと思っていた私にとって、このチャレンジは意外であった。こういう礼儀知らずの若手は始末におえない。選考の相手は経験ある同業者なのである。学会での発表で、同業者に対してこんな質問の仕方をする奴はいない。こちらも「仕事をめぐんで下さい」と懇願しているのではないのである。教官職の選考というのは、大学側が選考すると思っているのかも知れないが、勿論、応募者側の大学の選考でもあるのである。大学教官の選考とは、いわば、「お見合い」的な活動なのだ(少なくともアメリカでは)。その辺のことを理解していないのか、あるいは、オレはこの大学の教授でオマエは求職者だ、オレはオマエより偉いのだ、とでもいうようなくだらないbigotryでもあるのか、「不愉快」と書いたような顔をこちらに向けてにこりともしない。もし私の教育抱負について本当に知りたいのなら、「教育についての言明が余りありませんでしたが、大学医学部は教育も重要な使命でありますので、教育への抱負をお聞かせ戴けませんか」と聞くのが筋である。私は教育について思うことがないわけではなかったのだが、現在教育には殆ど携わっておらず、発表時間も限られていたので、研究を主体に話しただけのことなのである。それに、私も教育に情熱があるわけではないし(そもそも、大学の基礎講座の教授選に応募する人で教育に情熱を燃やしているような人がいたら、お目にかかりたい)、現在教育には殆どタッチしていないので、教育について述べないという発表のストラテジーは意図的なものであって、それをどのように解釈するかは聴衆の自由なのである。本当に知りたかったら、普通にものを尋ねるときの作法を従ってストレートに尋ねればよいのである。彼は自分も同時に私や他の人に評価されているということを理解していないのかもしれぬ。あるいは、教授選では相撲部屋のしごきのように、多少、相手をイビッてやるのが聴衆としての務めであると勘違いしているのかも知れない。それで、私は彼よりは少なくとも人間的には大人であるから、もちろん、にこやかに念のために用意をしていた教育への抱負のスライドを出して、やりたくもない熱弁をふるうことになったのであった。

Thursday, April 16, 2009

一の巻(8)

 例えれば、これは、答案に名前を書き忘れたら答えが全部あっていても、0点にするという、日本お得意の減点式採点法である。名前を書き忘れるような奴に教官が務まる訳がない、日本語がちゃんとしゃべれない奴は研究ができるわけがない、そんなように候補者の能力を推測するやりかたである。事実、名前を書き忘れたり、仕事に必要なコンピューターを置き忘れたり、発表スライドを間違えたりするおっちょこちょいの優秀な教授は山のようにいる。彼らはもっと重要なことに意識を割いているから、細かいことを忘れるのである。こんな選考方式をとる大学が、研究とはなんたるか、大学教官の資質がどうあるべきか、とても理解しているとは思えない。そこの教官には、将来の自分たちの同僚が自分の大学や自身の研究にどのように益してくれるかということを評価しようとする真摯な態度がない。優秀な教授を迎えて、大学の研究レベルを上げ、皆で向上しようとする気持ちが全く汲み取れない。早い話が、そこの教官には、自分はここの教授であり、現在の生活の安定は取りあえず達成できたので、誰が来ようと義務さえ分担してくれたらそれで構わない、新しく来る奴の研究なんかどうでもよいと思っているように感じられるのである。こういう態度を私は、負け犬根性と呼ぶ。あるいは、がちがちの体制のなかで、皆心ならずも、やむを得ず従っているだけなのかも知れない。

Monday, April 13, 2009

一の巻(7)

アメリカでは何度か就職活動で面接に行ったこともあるし、セミナーに呼ばれたこともあるので、研究者の就職活動がどのように行われるかについて漠然とした予想というか期待があった。今回は、教授選ということでもあり、いくら何でも、それなりの対応があるのであろうと思っていた。アメリカでは、もっとジュニアの教官職であっても、普通2日の日程で、1時間ずつの発表を二回行い、10人以上の教官との個人面談があり、夜はそれなりのレストランに連れて行ってもらって食事のもてなしがある。丁寧なところだと空港まで、教室のチェアの人自ら送り迎えする。つまり、それだけの時間と金を使って、候補者をじっくり吟味すると同時に、よい人があれば、オファーを出した場合に向こうが是非来たいという気持ちにさせるようなもてなしをするのが普通である。勿論、そうした職には、多ければ数百の応募があって、倍率だけみれば、買い手市場のように見えるのだが、現実は、優秀な人を見つけるのはそう簡単ではなく、大学側もその点をよく承知しているから、面接に2日の時間をかけ、もてなすのである。日本の大学がこうした活動にどれだけ吝嗇かはある程度想像していたので、晩飯を奢ってもらおうとか、駅まで送迎リムジンをだしてもらおうとかは、勿論、全く念頭に無かった。しかし、面接が発表30分、質問10分、個人面談20分という合計1時間のスケジュールには、正直、恐れ入った。アメリカではジュニアの教官を雇うときでさえ、その20倍近くの時間をかけて、お互いを理解し合い、将来の仲間となる人を選ぶという目で面接をするのである。初対面で書類でしか知らない人とのたった一時間の面談、そんなもので何がわかるのか。だいたい、30分で研究、教育の概要と抱負を発表しろというのが無理である。今やっている研究の一部だけでも30分では足りない。普通、研究だけのセミナーでも1時間やる。それは1時間必要だからである。この30分の発表で、聴衆がわかることは、言葉がちゃんとしゃべれるか、コンピューターが使えるか、ビンボウゆすりとか変な癖がないかとかいう、研究能力を評価するのに余り役に立たない情報ぐらいである。

Thursday, April 9, 2009

一の巻(6)

時間に近づいたので、スターバックスを出て、地理のわからない病院と大学の敷地をうろうろし、その辺で大掃除の最中らしい事務員のような人に道を聞く。愛想は悪いが、わざわざ二階まで案内してくれる。管理棟の薄暗い廊下の突き当たりにある医学部長室に通された。さすがに広々とした絨毯ばりのオフィスで、大きな革張りのソファーセットがあって、剥製とかの置物がかざってあったりする。しかし、革張りソファーの皮の一部はすり切れているし、絨毯の色は褪せて安っぽいし、窓の木枠はシミ状に汚れている。こういったものの修繕に回す金がないのだなあ、とわびしい気持ちにさせられた。応対してくれた秘書の人は、「今、三番目の方の面接が進行中ですので、もう少しお待ち下さい」と言った。私は、どうもトリのようであった。教授選の面接を数人をまとめて、同一日にやるというやりかたに、私はまたまたショックを受けた。ここの大学の選考側は、教授職に応募してきた仮にも長年研究という活動に地道に取り組んできたプロの学者に対して、会社の新入社員を雇うときのような対応しかしないのである。早い話が、プロを迎え入れるという態度ではなく、「雇ってやる」という一段上からの卑しいやり方なのである。その後の選考委員長の話の様子からは、こういう形式をとるのは、学者という同業者に対して、さすがに失礼であるとは思っているらしいことが見て取れた。(大学に予算がないので、こんな面接になってしまったのです)と心の中では、ちょっとは申し訳ないと思っているような話ぶりだった。

Monday, April 6, 2009

一の巻(5)

大学は田舎の畑の中にある。二十年前の独身時代だったら好きになれたかも知れない。時間には早かったので、病院の正面口のところにできたスターバックスでコーヒーを飲む。日本の昔の喫茶店のコーヒーはもっとおいしかったと思う。神戸では西村コーヒーは会員制の店を持っていたぐらいだ。店員の人の愛想はよい。日本の接客小売業は立派だと思う。一息入れて、もって来た雑誌に目を通す。私は、何時にどこどこに行くということが嫌いである。余裕をもっていくといつも余裕を取り過ぎて時間を持て余すし、時間きっちりに着こうとすると間に合わないかも知れないと思って気が急く。そして、実際しばしば遅れる。誰かが、ぼーっとしていても、所定の場所に連れて行ってくれるというのが理想である。そうすれば、時間のことに気を散らすことなく、自分の仕事に集中できると思う。日本には昔から、時間を管理するのも自分の仕事であるし、下らない会議に出たり、つまらない事務書類を書くのも仕事のうちであって、そんな仕事さえ満足にできない者が、本業の仕事を十分に遂行することなどできない、という馬鹿げた観念があるように思う。人間を社会を構成する機械の1ピースと看做しているからであろう。人は社会が期待しただけのことを間違いなくやれればそれでよい、それ以上のことは勝手にやりなさい、という感覚である。この感覚は、学者や作家や起業家であろうと、サラリーマンやアルバイトであろうと同様である。例えば、自動車の生産ラインの人が期待されたことを行わず、勝手に行動すれば、まずいのは良くわかる。それは非常に限定された仕事を達成するという目的があるからである。然るに、学者や作家や起業家にとって同様の資質はむしろ害である。彼らの目標は彼らが設定するのであって、他から言われて働いているのではないからである。日本人の創造性をもっともダメにするのが、創造的仕事に自動車生産ラインでの仕事のモラルをそのまま適用しようとすることであろうと思う。そんなことを考えながら、スターバックスで時間を潰す。外はもう冬の夕暮れが近づいて来ている。どんよりした曇り空が暗くなってきた。

Thursday, April 2, 2009

一の巻(4)

所定の時間に間に合うように、単線電車に乗る。平日でも一時間に1-2本しか運行していない。単線のせいか、始終止まっては、時間待ちをする。その間、車内の温度を保つためか、ドアが閉まる。その間に乗り降りしたい人は、ドアの横にあるボタンを押して乗客自らドアを開け閉めするのである。大学最寄りの駅は電車で15分ほどの無人駅だった。降りるときは、先頭車両まで行かなければならない。駅で止まると、運転手がいきなり振り向いて、客室との境の窓を開け、切符を受け取ったり、清算をしたりするシステムなのである。無人駅をぐるりと回って、駅の南側の畑と住宅が混在する通りを大学方面へと下る。幹線道路を除けば、畑のあぜ道を拡げて舗装したという感じの通りである。背広を着てスーツ鞄を下げた中年の男の人が面白くないような顔をして、駅の方向へ歩いてくるのとすれ違った。(あとから思えば、今回の教授選の別の候補者だったのだろう)

Monday, March 30, 2009

一の巻(3)

 、、、とはいっても、郷に入れば郷に従え、これが日本のシステムである以上、悪法も法なりと、仰せの通りに書類を作成する。研究は続けたいが、やりたいことができないなら、廃業して健康管理センターで検診医師になればよい(その方が収入もずっとよい)そんな気持ちで応募したものだから、「仕事ください」と卑屈にお願いするというような態度でもない。とにかく、このような日本の教授選考システムであるから、応募したときは、そもそも書類選考で多分落とされるだろうと思っていた。面接にわざわざ呼ばれるとは思っておらず、面接への招待が来たときは、宝くじで三千円あたったようなときのような、意外な気持ちしかしなかった。おそらく、教授選の格好をつけるための当て馬なのだろうと思って、そのときには、新たに2年のグラントがおりる見込みがつきそうだったので、辞退しようと思ったが、「折角、呼ばれたのだからとにかく面接にいって、万が一、オファーが出たら、その時に辞退するかどうか考えたらいい」と妻に言われ、こうやって、遠路はるばる、この四方を山に囲まれた田舎町へと出て来たのであった。この県の県庁所在地である駅のそばの寂れたビジネスホテルに宿をとる。寂れていないホテルもあるのかも知れないが、駅前の様子を見ていると、この地方都市の経済規模というのはよく分かる。翌日、訪れた東京の銀座の様子から察しても、実は日本全体が単に不景気なだけなのかも知れない。

Thursday, March 26, 2009

一の巻(2)

インターネットのゴシップページなどから情報を集めてみると、基礎の教授選に出るには、自分の年令以上の数の論文がいるらしいとある。私の論文の数は年令には届かない。それなりの質の論文を書こうと思えば2年に1本というのが相場であろう。誰か知り合いと論文に名前を入れ合うとか、そんな「ずる」をしない限り「自分の」論文などそんなに数がでるわけがない。良い論文ほど出すのに時間がかかるのだから、良いものと数はそもそも両立しない。その大学の応募書類の指示を見ると、出版した論文が掲載された雑誌の2007年度のインパクトファクターを併記せよとある。インパクトファクターは出版年度で随分違うし、非常にいい加減な雑誌のレベルの評価法である。選考については、この数字を単純に足し算して、ある数字に達した応募者を機械的に選ぶというやり方をするのであろうが、そもそもそんな数字を足すこと自体、無意味である。ゴシップページでは、この数字が最低いくつないといけないとか、筆頭著者論文のインパクトファクターの合計が最低いくついるとか、そんな情報がまことしやかに書かれている。しかし、裏返せば、応募書類にこういう指示が明記されているということは、選考委員が論文の価値を定量的、定性的に評価する能力に乏しいと自ら明言しているのと等しい。アメリカでは、論文の数よりも質である。インパクトファクターを記せなどと指示されることは絶対ない。つまり、教官を選考する側は、そもそも教官の業績をそのような数字の助けなくとも、プロとして評価できるような人が選考を行う。日本の大学教官の採用は、殆ど大学入試で、新入生を取るのと同じ感覚で、ろくすっぽ、その候補者の能力を判断するだけの能力もないような者が数字の意味もわからないのに、その数字を見て選ぶのである。