その1メートル四方の箱には、宝くじを売るという目的に必要な機能が驚くべき精密さで詰め込まれている。欠けているのは、肝腎の宝くじを売る人が快適に宝くじ売りという仕事を遂行するための機能である。この宝くじ売りの狭い箱を見る人の少なからずが狭い鳥かごに詰め込まれて卵を生み続ける鶏を思い浮かべるであろうと想像する。限られた歩道の空間で宝くじを売るという機能のために、その人は狭い箱の中で我慢をしていると私には見える。箱をもう少し広くすれば済むことなのだ。あるいは箱ではなく、ちゃんとした宝くじ売り場のオフィスをつくればよい。歩道が狭いなら拡げれば良い。日本には土地がないから、狭いのは仕方がないという。それはウソだと私は思う。ちょっと田舎にいけば、車が無ければ食料も手に入らないような所はいっぱいある。土地を売って人よりも余計に金儲けをしたい人が、居住空間を切り刻んで、切り身にして高い単価で売りつけようとするから、都会の土地や家の値段が高くなりすぎるのである。しかも、不思議な事に日本人はその狭くて住みにくい場所へ自ら進んで住みたがる。こんな冗談を思い出した。
ストレスが溜まってノイローゼ気味の人がニューヨークへ引っ越した。
なぜなら 、
ニューヨークに住めば、ストレスとノイローゼの理由ができるから。
Thursday, May 7, 2009
Monday, May 4, 2009
一の巻(13)
日本の都市や家や大学システムを設計する人は、人は何のために生きているのか、考えているのだろうか?こうした構造物が本来、何のためにあるのか分かっているのだろうか?家を建てる人は少ないコストで最大限の機能を持たせることを考えて設計する。車をつくる人は小さな空間を出来るだけ拡げようとする。だから、地震になると住人は押しつぶされ、火事では一酸化中毒で死に、軽四輪車の交通事故では容易に死亡するのである。家を建てる人は「家を建てる」という目の前の目標しか見ていない(日本の社会がそれ以上を見ることを阻むのである)その家に住む人が、どのように生活をし、どのように自らの生の目標を達成していくのか、そしてそのために建てた家がどのように役立つのか、そんな人間の道具としての家という視点が欠けている。日本のシステムというのは、人のためにシステムを変えていくという発想がなく、むしろ、人をシステムにあわせようとする。だから、一見、極めてムダがないように見えるのである。そのことを、晴海通りの宝くじ売りのボックスを見て感じたのであった。一メートル四方もないような箱が歩道におかれていて、全面の上半分は窓になっている。中には初老の女の人が座っているのである。冬の寒い日で、どうも膝掛けやカイロなどで暖を取るのであろうが、私には飛行機のエコノミークラスで太平洋を横断する以上の拷問であろうと思えた。立つ事も出来ない小さな箱の中で、その人の一日が過ぎていくのである。
Thursday, April 30, 2009
一の巻(12)
この地で、「人は城、人は石垣、人は堀」という言葉を知らない人はいない。大学にとって優秀な研究者は財産であるという考えを日本の二流大学は受入れることができない。だから一流になれないのだ。よい花を咲かせようとすれば、肥料や水やりは欠かせない。よい土を入れて日当りのよい場所に植えて、水やりや肥料を欠かさず、世話してはじめて、よい花が咲くのである。日本の二流大学には、そもそも、よい花を咲かせようというような良心のアカデミズムというものがない。花が咲こうと咲くまいと知った事ではない、花壇はあるのだから、枯れたら、違うのに植え替えればよい、としか思っていないのである。だから、いつまでたってもよい花が咲かないのである。
Monday, April 27, 2009
一の巻(11)
日本に欠けているものは、余裕とか遊びとかである。ムダな空間や時間である。日本人の効率主義で、ムダな時間や空間は本当に無くすべき「ムダ」であると思っているのではないだろうか。だから、あれほど、建築物が醜いのである。限られた空間に、家が家として機能出来るぎりぎりの設計でものを建てるから、ああなるのだ。確かに家としての機能、つまり、夜露を防ぎ、生命活動を維持するだけの空間を与えることは出来ている。しかし、それだけである。だから貧しい。人はそんな家では生きることはできても、生活を楽しむことはできない。都市もそうである。都市を歩いて景色を楽しむように設計されていない。そこには、働く人々が昼間、仕事をするという機能を果たせるぎりぎりのスペースが確保されているに過ぎない。楽しく仕事をするとか、楽しく生活するとかという発想がないのである。教官選考もそうである。それを人との出会いであり、学問的啓発を得る機会と捕えようという発想がない。知らない同業の研究者と食事にいって情報交換をし、ネットワーキングしようという発想がない。教授を選考するのに最小限のリソースしかなく、候補者は、仕事をもとめる失業者で、大学は就職を世話してやる職業安定所だというような発想なのである。つまり、やとってやるという態度なのである。
Thursday, April 23, 2009
一の巻(10)
はっきり言って、なぜ、この大学が二流大学であるのか、よく理解できた発表会であった。しかし、自分の業績からは、二流大学にしかチャンスがないのは分かっているので、ちょっと気分の滅入る面接となった。もしオファーが貰えても、ここで二流の研究者として、糊口をしのぐためだけに就職するぐらいなら、お医者さんに戻って地域医療に貢献する方が上である。きっとその方が世の中のためになりそうな気がする、そう思った発表会であった。(一度だけなら多くの事柄は経験に値する、とポジティブに考えることにする)
その日の夜は、一人で土地のおいしいものでも食べて、ゆっくりするはずであった。少しタクシーに乗れば、温泉町もある。しかし、気分は暗く、日本の田舎町と田舎大学に対する後味の悪さだけが残って、楽しくすごそうという気持ちになれなかった。夜になると気温がさがってきた。この田舎町でも幹線沿いには、インドやスリランカから出稼ぎに来た人たちがやっている料理店が散在する。駅前には白人系の外国人もちらほらする。日本のこの規模に田舎町で外国人をみるなど、昔はなかったことである。不景気で東京から押し出されたのだろうか、などと考える。田んぼや畑の前の幹線道路で、客寄せのために、旗を振っているインド人の姿を見るのは悲しい。ある小学校の給食に、うどんとひじきとクロワッサンが出たという話を読んだことがあるが、田んぼと畑とインド人、という組み合わせも、パッとしない。空腹となってきたので、せめて、名物ほうとうでも食べて、暖まるかと思って、駅前のほうとう屋にはいると、「ほうとうは30分以上かかる」と言われて、がっくりする。極太麺なのでゆでて煮込むのにそれだけかかるのだそうだ。それで、15分でできるという「おざら」というのを注文した。同じような極太麺だが、煮込まないので多少早い。ゆでたら、水で「さらさら」とすすいで冷やすので、「おざら」というそうである。妙なことに、この冷たい麺を具の入った暖かいツケ汁につけて食べる。これは、どう考えてもおかしい。ツケ汁は生温くなり、麺は外側だけがヘンに暖かい。味付けはともかく、この生温さでは、おいしさ半減である。どうして釜揚げにしないのか、あるいは逆に冷たいタレにしないのか、と心の中で文句を言いながら食べる。食べ終わって、寂しい駅前をとぼとぼと昭和の匂いのするひなびた安ホテルに帰った。そして、この悪口を書き始めたのであった。
その日の夜は、一人で土地のおいしいものでも食べて、ゆっくりするはずであった。少しタクシーに乗れば、温泉町もある。しかし、気分は暗く、日本の田舎町と田舎大学に対する後味の悪さだけが残って、楽しくすごそうという気持ちになれなかった。夜になると気温がさがってきた。この田舎町でも幹線沿いには、インドやスリランカから出稼ぎに来た人たちがやっている料理店が散在する。駅前には白人系の外国人もちらほらする。日本のこの規模に田舎町で外国人をみるなど、昔はなかったことである。不景気で東京から押し出されたのだろうか、などと考える。田んぼや畑の前の幹線道路で、客寄せのために、旗を振っているインド人の姿を見るのは悲しい。ある小学校の給食に、うどんとひじきとクロワッサンが出たという話を読んだことがあるが、田んぼと畑とインド人、という組み合わせも、パッとしない。空腹となってきたので、せめて、名物ほうとうでも食べて、暖まるかと思って、駅前のほうとう屋にはいると、「ほうとうは30分以上かかる」と言われて、がっくりする。極太麺なのでゆでて煮込むのにそれだけかかるのだそうだ。それで、15分でできるという「おざら」というのを注文した。同じような極太麺だが、煮込まないので多少早い。ゆでたら、水で「さらさら」とすすいで冷やすので、「おざら」というそうである。妙なことに、この冷たい麺を具の入った暖かいツケ汁につけて食べる。これは、どう考えてもおかしい。ツケ汁は生温くなり、麺は外側だけがヘンに暖かい。味付けはともかく、この生温さでは、おいしさ半減である。どうして釜揚げにしないのか、あるいは逆に冷たいタレにしないのか、と心の中で文句を言いながら食べる。食べ終わって、寂しい駅前をとぼとぼと昭和の匂いのするひなびた安ホテルに帰った。そして、この悪口を書き始めたのであった。
Monday, April 20, 2009
一の巻(9)
しかし、発表の後の質問では、私は、実際の現場の中の多少敵意さえ感じられる意地の悪い視線や質問に辟易とした。この忙しいときに興味のない教授選にわざわざ時間をさいて来てやっているのだ、という態度があからさまな若い教官もいる。その点、医学部長は大人で人の扱い方を知っている。こちらにしてもも、家族とのクリスマス休暇をキャンセルして、楽しんでもらえるような話をしようと、遠路はるばるやってきたのである。面接とは言え、お互い、歩み寄って、楽しいひと時を過ごせるように努力するのが、人としてのたしなみではないか。聴衆の多くはそこの大学教授で、臨床教授は余り私の話には興味がないという感じで、義理を果たすためにそこに座っているのだいう様子。基礎講座の二三の若手教授は、話に興味を持ってくれて、いい質問をしてくれた。応募教室の別の教官は、将来、私が教授になったりしたら、追い出されるかも知れないと警戒してか、アメリカのグラントは持って来れないだろうとか、日本の科研の申請経験はあるのかとか、Noの答えを期待して、聞いてきたが、彼の期待に反して、私が全部にYesと言ったので、中途半端に質問を打ち切ってしまった。もう一人の聴衆の若手教授は、私が教育のことに発表で触れなかったので、「教授選の発表で教育に触れないのでは教授候補として評価のしようがない」とチャレンジして来た。この人の経歴はインターネットで見て知っていた。イギリスでしばらく独立してやっていて、そこそこの仕事を出した「有能な」若手である。国内の事情しか知らないならともかく、海外での経験があるのだから、教官の選考がどういうものか知っているはずだと思っていた私にとって、このチャレンジは意外であった。こういう礼儀知らずの若手は始末におえない。選考の相手は経験ある同業者なのである。学会での発表で、同業者に対してこんな質問の仕方をする奴はいない。こちらも「仕事をめぐんで下さい」と懇願しているのではないのである。教官職の選考というのは、大学側が選考すると思っているのかも知れないが、勿論、応募者側の大学の選考でもあるのである。大学教官の選考とは、いわば、「お見合い」的な活動なのだ(少なくともアメリカでは)。その辺のことを理解していないのか、あるいは、オレはこの大学の教授でオマエは求職者だ、オレはオマエより偉いのだ、とでもいうようなくだらないbigotryでもあるのか、「不愉快」と書いたような顔をこちらに向けてにこりともしない。もし私の教育抱負について本当に知りたいのなら、「教育についての言明が余りありませんでしたが、大学医学部は教育も重要な使命でありますので、教育への抱負をお聞かせ戴けませんか」と聞くのが筋である。私は教育について思うことがないわけではなかったのだが、現在教育には殆ど携わっておらず、発表時間も限られていたので、研究を主体に話しただけのことなのである。それに、私も教育に情熱があるわけではないし(そもそも、大学の基礎講座の教授選に応募する人で教育に情熱を燃やしているような人がいたら、お目にかかりたい)、現在教育には殆どタッチしていないので、教育について述べないという発表のストラテジーは意図的なものであって、それをどのように解釈するかは聴衆の自由なのである。本当に知りたかったら、普通にものを尋ねるときの作法を従ってストレートに尋ねればよいのである。彼は自分も同時に私や他の人に評価されているということを理解していないのかもしれぬ。あるいは、教授選では相撲部屋のしごきのように、多少、相手をイビッてやるのが聴衆としての務めであると勘違いしているのかも知れない。それで、私は彼よりは少なくとも人間的には大人であるから、もちろん、にこやかに念のために用意をしていた教育への抱負のスライドを出して、やりたくもない熱弁をふるうことになったのであった。
Thursday, April 16, 2009
一の巻(8)
例えれば、これは、答案に名前を書き忘れたら答えが全部あっていても、0点にするという、日本お得意の減点式採点法である。名前を書き忘れるような奴に教官が務まる訳がない、日本語がちゃんとしゃべれない奴は研究ができるわけがない、そんなように候補者の能力を推測するやりかたである。事実、名前を書き忘れたり、仕事に必要なコンピューターを置き忘れたり、発表スライドを間違えたりするおっちょこちょいの優秀な教授は山のようにいる。彼らはもっと重要なことに意識を割いているから、細かいことを忘れるのである。こんな選考方式をとる大学が、研究とはなんたるか、大学教官の資質がどうあるべきか、とても理解しているとは思えない。そこの教官には、将来の自分たちの同僚が自分の大学や自身の研究にどのように益してくれるかということを評価しようとする真摯な態度がない。優秀な教授を迎えて、大学の研究レベルを上げ、皆で向上しようとする気持ちが全く汲み取れない。早い話が、そこの教官には、自分はここの教授であり、現在の生活の安定は取りあえず達成できたので、誰が来ようと義務さえ分担してくれたらそれで構わない、新しく来る奴の研究なんかどうでもよいと思っているように感じられるのである。こういう態度を私は、負け犬根性と呼ぶ。あるいは、がちがちの体制のなかで、皆心ならずも、やむを得ず従っているだけなのかも知れない。
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