Thursday, January 29, 2009

まえがき(4)

さて、人の眼を見つめてしゃべる、で思い出したが、どこかで読んだ話で、「こけし」の由来が解説されていた。「こけし」というものは、そもそもは、等身大の実用の木彫りの人形(この人形の名前がでてこないのだが「xxxさん」とさんづけで呼ばれていたように覚えている)の携帯版であるという説を知った。ここでは、いちいち「その木彫りの人形」というのも面倒なので、「デクさん」とでも呼ぶことにしよう。(実は、等身大の実用人形ということで、インターネットで名前を検索しようとしたのだが、ひっかかってくる検索結果の殆どが、ビニールなどで出来た独身成人用のもので、しかも「こけし」との関連を調べようとしたら、ますます検索は本来と違う方向にいってしまったので、名前を調べるのを断念した次第である)その実用人形、デクさんの用途というのが、素晴らしい。つまり、誰かに言いにくい話をするとき、あるいは単に気まずくなったりした時に、デクさんに出て来てもらうのである。日本では、国会でも、相手の眼を見て、面と向かって批判はしない。そうすると、台湾の議会などでおこったように、つかみ合いの喧嘩に発展したりするからであると私は思う。言いにくい事を相手の眼を正面から見て言うのには勇気がいる。言われる方も追いつめられ、白か黒か、はっきりした答えを口にせざるを得なくなる。その対決の結果は、大抵、どうころんでも良いことはならない。だから、相手が隣にいるにも係らず、言いにくい事は直接相手に言わずに、デクさんに相談するのである。また、相手もデクさんに対して返答する。このように、人形を使って、ワンクッションを置く事によって、話は二者間の正対する力のぶつかり合いにならずに済み、両者が一歩ずつ違う方向に動くことによって歩み寄れるというわけである。この方法は、アメリカのカウンセリングなどでも使われている。コメディーショーなどでよく見る、カウンセラーが操るソックパペットと呼ばれるソックスで作った人形に向かって、コンフリクトを抱える二者が意見を言う、という例のやつである(しかし、多分これは作り話であろう)。「こけし」はデクさんの携帯版であり、面と向かって「個」が対立するのを防ぐ「個消し」であるという説であった。最近の若者や首相は、空気を読んだり心の機微を察したりするような繊細さを欠くものが多いので、デクさんのようなものの存在意義を理解できないかも知れないが、本来、人と人とのコミュニケーションというのは、僅かな臨時手当てが出た日に家族で初めて行ったうなぎ屋で、「今日の所は、並にしておくよ」と注文する時のように、繊細なものなのである。決して、一杯のかけそばを分かち合うようなものではないと言っておきたいと思う。(この喩え、わかっていただけたでしょうか?)

Monday, January 26, 2009

まえがき(3)

「まえがき」が本文を読むであろう読者に向けて書かれているということは自明である。読者が本文を読む際の補助となることを目的として、「まえがき」は書かれる。そこで、読者や聴衆に対して語るということについて、もう少し述べておきたいと思う。誰かに向かって語るということは、聞き手の反応を予測し、その予測に基づいて、聞き手の心理を、ある意味、操作しようとする行為である。聞き手はその操作に乗せられて協調的な気分になることもあれば、逆に操作を受けまいと抵抗することもある。いずれにせよ、まずは語り手が最初の一手を下さなければならないというこの相互作用の性格上、それが攻撃になるか、懐柔になるか、懇願となるか、その語り聞くという作業のトーンを決めるのは、まずは語り手の出方やその後の態度に依存するというのは改めて言うまでもないであろう。聴衆に語りかける時、アメリカでは、真っすぐに眼を見つめ、相手の反応を見ながらしゃべる。眼をそらすと、やましい事を隠していると思われる。そもそも眼も見ないでしゃべるのは、相手を無視するようで失礼であるという文化的理解がある。これは科学論文と同様、多民族国家であるアメリカで、いろんな言語的、文化的バックグラウンドの異なる人々が「間違いなく」意思疎通を図るための手段であったのだろうとと考えられる。しかし、日本では、逆に相手の眼を正面から見ながらしゃべる方が失礼である。じっと眼を見ながらしゃべると、喧嘩を売っているのか、あるいは必要以上の好意を示しているのか、と勘ぐられて、いずれにせよ、余りcomfortableでない状況を創り出す。だから、この文章も、「ストレートにあなたに向かって、あなたやあなたの周囲の人を、批判しているのではないですよ、あくまで、自分が知覚した周囲の環境からのインプットに対して、自分の心の中に生み出したものを記述しているに過ぎなのです」ということをしつこく断っておきたい。そして、その周囲の環境にあなたやあなたの周辺の人々が含まれるかどうかは、私にはわかりません、と逃げておく。

Saturday, January 24, 2009

まえがき(2)

書き手と読者が言外のメッセージを読みとるためには、文化的教養を共有することが不可欠である。書かれてある文字列を、暗喩される特異的なコンテクストに入れて解釈することによって、行間は読まれる。「ぶぶ漬けでもどうどすか?」と京ことばで聞かれて、「いただきます」という答はあり得ない。山といえば川、ツーと言えばカーが頭に浮かぶことを書き手は期待している。読者はその意図を汲み、行間に隠された流れを先取りして読み進む。そうして、書き手と読者とのコラボレーションが何らかの意味を動的に創出すること、それが読書と言う作業と言って良い。あるいは、書かれたものと書かれていないものが読者の中で有機的結合を遂げる時に読書が成立すると言い換えることも可能であろう。その点、科学研究者の中には、勧められたら、喜んで、ぶぶ漬けをおかわりするような輩が少なくない。彼らは文章を文字通りに読む訓練を積んで来ている。だから科学論文は、中学一年の英語の教科書のような文章で書かれるのである。一つの文には主語と述語は一つずつ、長い文は二つ以上に分ける、例え話をしてはいけない(本気にされるから)。言いたいことが、字面に書いてあるそのままに過不足なく表されていて、どこの誰が読んでも読み間違えないこと、などに最も注意して書かれる(そうでなければ、レビューアにいじめられるから)。一方、明らかに言外のメッセージを読み取っておきながら、わざと気づかぬふりをするような意地の悪い者もある。これは、ヤクザが言質をとって善良な一般市民を脅すのと同類である。ともあれ、私はここに断言しておきたい、私はヤクザの脅しには屈しない、と。

Friday, January 23, 2009

まえがき(1)

まえがき

次に記すことは、昨年の末の実際の体験をもとに思うところを書いたものである。何のためにという目的があったわけではない。時差ぼけで夜中に目が冴えて、時間を持て余したので、感じたことをそのまま書いただけである。だから、普段私は、人の目に止まる可能性のある文章は、丁寧語を使って書き、なるべくoffensiveなことは書かないというポリシーで書いているのだが、ご覧のようにすでに、この文章は「です、ます」調では書いていない。ブログに載せようと思ったのは、書いてからしばらく経ってからで、こういう体験記を余りインターネットで目にすることがないので、ひょっとしたら、私と同様の事を活動中もしくは活動予定の人の参考になるのではないかと思いついた。つまり、私の個人的な体験記であっても、読む人によっては何らか社会に益することもあるかも知れぬと考えたので、ちょっと完結した形が見えるまで書き続けるかと思った次第なのである。「です、ます」調にしなかったのは、一つには直すのが面倒臭かったからであるが、第二には、この文章は、基本的に悪口であって、今更、offensiveとならないよう、読者の感情を傷つけないように、という配慮を、多少の修辞上の小技でどうにかしようとしても、「口紅を豚に塗っても、豚は豚」ではないが、もはや意味がないであろうと思ったせいもある。つまり、どうせ、悪口を言っているのだから、正々堂々と、悪口らしい悪口をあたかも悪口を言うかのような口調で言う方が潔くて良い、と感じたということである。因みに、これを書いている現段階では、活動の帰趨については、私はまだ告知されていない。従って、悪口を書いている理由というのは、別段、先方が私の意に沿った返答を返してくれなかったための恨みを解消せんとするような理由からではないと断っておく。この本文の悪口とは、実は、公平な批判である。感情的なものは余り入っていない。しかし、批判というもは、それが的をついている場合に、最も人の神経に触るということを、私は知っている。そして、私の批判は的を突いているのである。従って、日本の地方大学に活動する教官は、この本文を読んで少なからず不愉快に思うものもいるであろうと想像している。という事情ではあるが、そもそも、読んで不愉快に思うなら人は読まないであろうし、不愉快なのにきっちり最後まで読んで「不愉快だ」と文句を言ってくるような奇特な人があれば、それはそれで、議論を戦わすに値する、と考えた。また、不愉快なのに最後まで読んで「不愉快だ」と文句も言わずに、不愉快を自分一人の胸に閉じ込めて、上目遣いに敵意の光線を送ってくる読者もあるかも知れぬ。それについては、傲慢かも知れぬが、こう言わせてもらおう。私は無言の敵意光線に非常に感受性が鈍いから、そんなものに私が気がついて行動を改めるとでも考えているのなら大間違いだ、と。不愉快を胸に閉じ込めて、限られた人生の貴重な時間を無駄にするのは、そちらの損である、それに、私はチビだから上目遣いの光線はあたりません。斯くの如く、複数のシナリオを勘案した上で、覚悟を決めて、「正直に悪口を書く」という、この行為に及んだ次第である。しかし、そう開き直ってはみたものの、多少の小心さのために、「まえがき」で、「これから悪口言いますよ、この悪口には悪気はありませんからね」と、何はともあれ断っておいた方が、本文を読んでむっとするであろう将来の同業者の心証も必要以上に悪くせずに済むのではないか、とのセコい計算のもとに、この「まえがき」は書かれている。このまえがきは、本文と異なり、はじめからあきらかに自分以外の読者に向けて書かれている。にもかかわらず、「です、ます」調ではない。その理由を、多少、述べさせてい戴きたい。それは、「これらの悪口はあなたに向かっていっているのではありません。ここに書いたことはそう感じた私の中の私に向かって声にしているだけなのです。だから、この文章は、本来、私の独り言なのです。ね、わかるでしょう?独り言だから、どんな風にしゃべっても、多少、言葉遣いが悪くても、あなたに向かって言っているわけではないのですから、許して下さいよ。そうでしょう?」という言外のメッセージを伝えるために、わざわざ「です、ます」調を避けているのである。しかし、本来、言外のメッセージというのを全く読み取ってくれない人が世の中には思いのほか多いということは、科学論文を読んだり書いたりしたりした間に、いやというほど学んだので、蛇足を覚悟で、本来、言外であるべき「言外のメッセージ」をこうして、解説してみたというわけなのである。