Thursday, May 14, 2009

一の巻(15)

 大学教官が学生教育をその最も重要な任務だと思っているような大学は、結局、ろくな教育はできない。大学の教育というのは義務教育での教育とはそもそも質の違うものだからだ。まして大学院にでもなれば、大学院生あいてに教育という言葉を使うことさえ、不適切だと思う。大学院生のためにすべきことは、彼ら自らが研鑽を積むための環境を与えることである。私は大学学部の教育もそうあるべきだと思う。特にインターネットがこれだけ発達した世の中となった今では、知識を伝達することを主たる目的としていた従来の教育の価値は限りなく低い。知識そのものは殆ど無料で簡単に手に入るようになった。だから大学での教育は知識の伝達ではなく、その理解を手助けすることであると思う。そういう観点から見ると、もっとも効果的な教育とは、大学教官が第一線の研究者として活動する生の姿をみせることに優るものはないと思う。故に、教育を言い訳に研究活動をおろそかにするようでは本末転倒ではないかと思うのである。教育ビジネスとしてではなく、本来のアカデミアの場としての大学を保つためには研究第一でなければならないと思う。研究が優れていれば、自動的に優秀な学生が集まり、優秀な学生が研究を自主的に進めていく。その軌道が極端にはずれないように、見ておくのが指導者がすべきことである。よって、研究が進まないからと言って、二流大学がその存在意義を教育に求めるようになれば、すでに病膏肓、つける薬がないと言わねばならぬ。二流大学であるからこそ、研究の重要性をもっと考えねばならない。それが唯一、二流大学を脱する道だからである。二流大学で一流の研究をするのは容易ではない。そのことは十分わかる。使えるリソース、金、人、一流と二流を分けるもののうち、物質的な差、労働力の差が九割を占めるといえる。しかし、他に道はない。一流大学と同じ土俵に上がって、ガチンコ勝負で勝つ、それしかないのである。

(しばらく、忙しいので、悪口を書いている時間がありません。次回のUPの予定は未定です)

Monday, May 11, 2009

一の巻(15)

日本人が都会へ集中することは、結構これに近い屈折した心理があると思う。都会の狭いところで、都会に住む事の不自由さをぶつぶつ言う隣人たちの中で、自分もぶつぶつ不平を言いながら暮らすのが好きなのだ。大学もそれに近いものがあると思う。研究したいがために安い給料で大学に残るのだと思うのだが、中には、大学の下らない雑用に忙殺されるのを喜ぶ人もいる。それを研究が進まないことの言い訳にする。そして、ますます、雑用にはまり込み、ますます研究から遠ざかって、急に教育に熱意を燃やし出したりして、周囲のまともな人に迷惑をかけたりまでするのである。中島義道は、大学はそこに職を求める者が利用する場所であり、自分の好きな事をする権利を手に入れるためのものである、と言ったが、(こう公衆の面前で堂々と本音を吐くと、嫌われると思うのだが、どうみても彼は、人から嫌われることに必要以上の耐性ができてしまっているようである。この耐性は後天的なもののように見える)、もちろん、大学に限らず、職場というのは本来そうしたものなのである。

Thursday, May 7, 2009

一の巻(14)

その1メートル四方の箱には、宝くじを売るという目的に必要な機能が驚くべき精密さで詰め込まれている。欠けているのは、肝腎の宝くじを売る人が快適に宝くじ売りという仕事を遂行するための機能である。この宝くじ売りの狭い箱を見る人の少なからずが狭い鳥かごに詰め込まれて卵を生み続ける鶏を思い浮かべるであろうと想像する。限られた歩道の空間で宝くじを売るという機能のために、その人は狭い箱の中で我慢をしていると私には見える。箱をもう少し広くすれば済むことなのだ。あるいは箱ではなく、ちゃんとした宝くじ売り場のオフィスをつくればよい。歩道が狭いなら拡げれば良い。日本には土地がないから、狭いのは仕方がないという。それはウソだと私は思う。ちょっと田舎にいけば、車が無ければ食料も手に入らないような所はいっぱいある。土地を売って人よりも余計に金儲けをしたい人が、居住空間を切り刻んで、切り身にして高い単価で売りつけようとするから、都会の土地や家の値段が高くなりすぎるのである。しかも、不思議な事に日本人はその狭くて住みにくい場所へ自ら進んで住みたがる。こんな冗談を思い出した。

ストレスが溜まってノイローゼ気味の人がニューヨークへ引っ越した。
なぜなら 、
ニューヨークに住めば、ストレスとノイローゼの理由ができるから。

Monday, May 4, 2009

一の巻(13)

日本の都市や家や大学システムを設計する人は、人は何のために生きているのか、考えているのだろうか?こうした構造物が本来、何のためにあるのか分かっているのだろうか?家を建てる人は少ないコストで最大限の機能を持たせることを考えて設計する。車をつくる人は小さな空間を出来るだけ拡げようとする。だから、地震になると住人は押しつぶされ、火事では一酸化中毒で死に、軽四輪車の交通事故では容易に死亡するのである。家を建てる人は「家を建てる」という目の前の目標しか見ていない(日本の社会がそれ以上を見ることを阻むのである)その家に住む人が、どのように生活をし、どのように自らの生の目標を達成していくのか、そしてそのために建てた家がどのように役立つのか、そんな人間の道具としての家という視点が欠けている。日本のシステムというのは、人のためにシステムを変えていくという発想がなく、むしろ、人をシステムにあわせようとする。だから、一見、極めてムダがないように見えるのである。そのことを、晴海通りの宝くじ売りのボックスを見て感じたのであった。一メートル四方もないような箱が歩道におかれていて、全面の上半分は窓になっている。中には初老の女の人が座っているのである。冬の寒い日で、どうも膝掛けやカイロなどで暖を取るのであろうが、私には飛行機のエコノミークラスで太平洋を横断する以上の拷問であろうと思えた。立つ事も出来ない小さな箱の中で、その人の一日が過ぎていくのである。