Monday, March 30, 2009

一の巻(3)

 、、、とはいっても、郷に入れば郷に従え、これが日本のシステムである以上、悪法も法なりと、仰せの通りに書類を作成する。研究は続けたいが、やりたいことができないなら、廃業して健康管理センターで検診医師になればよい(その方が収入もずっとよい)そんな気持ちで応募したものだから、「仕事ください」と卑屈にお願いするというような態度でもない。とにかく、このような日本の教授選考システムであるから、応募したときは、そもそも書類選考で多分落とされるだろうと思っていた。面接にわざわざ呼ばれるとは思っておらず、面接への招待が来たときは、宝くじで三千円あたったようなときのような、意外な気持ちしかしなかった。おそらく、教授選の格好をつけるための当て馬なのだろうと思って、そのときには、新たに2年のグラントがおりる見込みがつきそうだったので、辞退しようと思ったが、「折角、呼ばれたのだからとにかく面接にいって、万が一、オファーが出たら、その時に辞退するかどうか考えたらいい」と妻に言われ、こうやって、遠路はるばる、この四方を山に囲まれた田舎町へと出て来たのであった。この県の県庁所在地である駅のそばの寂れたビジネスホテルに宿をとる。寂れていないホテルもあるのかも知れないが、駅前の様子を見ていると、この地方都市の経済規模というのはよく分かる。翌日、訪れた東京の銀座の様子から察しても、実は日本全体が単に不景気なだけなのかも知れない。

Thursday, March 26, 2009

一の巻(2)

インターネットのゴシップページなどから情報を集めてみると、基礎の教授選に出るには、自分の年令以上の数の論文がいるらしいとある。私の論文の数は年令には届かない。それなりの質の論文を書こうと思えば2年に1本というのが相場であろう。誰か知り合いと論文に名前を入れ合うとか、そんな「ずる」をしない限り「自分の」論文などそんなに数がでるわけがない。良い論文ほど出すのに時間がかかるのだから、良いものと数はそもそも両立しない。その大学の応募書類の指示を見ると、出版した論文が掲載された雑誌の2007年度のインパクトファクターを併記せよとある。インパクトファクターは出版年度で随分違うし、非常にいい加減な雑誌のレベルの評価法である。選考については、この数字を単純に足し算して、ある数字に達した応募者を機械的に選ぶというやり方をするのであろうが、そもそもそんな数字を足すこと自体、無意味である。ゴシップページでは、この数字が最低いくつないといけないとか、筆頭著者論文のインパクトファクターの合計が最低いくついるとか、そんな情報がまことしやかに書かれている。しかし、裏返せば、応募書類にこういう指示が明記されているということは、選考委員が論文の価値を定量的、定性的に評価する能力に乏しいと自ら明言しているのと等しい。アメリカでは、論文の数よりも質である。インパクトファクターを記せなどと指示されることは絶対ない。つまり、教官を選考する側は、そもそも教官の業績をそのような数字の助けなくとも、プロとして評価できるような人が選考を行う。日本の大学教官の採用は、殆ど大学入試で、新入生を取るのと同じ感覚で、ろくすっぽ、その候補者の能力を判断するだけの能力もないような者が数字の意味もわからないのに、その数字を見て選ぶのである。

Monday, March 23, 2009

一の巻(1)

田舎の某二流大学の医学部基礎講座の教授職に応募した。

動機は、家族を養うために職がいるからであった。私のような年になって、今後もなんとか研究業界でやっていきたいとなれば、選択肢は限られてくる。採択率15%未満のグラントに、研究はもとより、生活費のほとんどを依存するような現在の生活は、研究成果をあげ続け、グラントを取り続けることが必須である。然るに、研究などそもそも投資行為であって、8割以上のプロジェクトは失敗に終わるのである。グラントを取り続けるために、残りの2割を限られた年数で確実に「当てる」には、多数のプロジェクトを同時平行させ、当たりそうなものにすばやく目星をつけるという研究スタイルを取らざるを得ない。そうなると、自然と、やるべき研究、したい研究よりも、やれば当たりそうな研究が優先され、本当は、もっと重要で、だからこそ、容易に誰も見つけることが出来なかったような発見が見落とされる率が上がるのである。そして当たりをつけて全力投入したプロジェクトがこけるということも頻繁におこる。今のシステムではそんなプロジェクトがこけたら後はない、プロジェクトどころか研究業は廃業となる可能性が高くなる。この2年、「どうやったら、グラントがとれるか」という観点からばかりプロジェクトを眺めて来た。結果、ろくな成果は上がらなかった。大量の断片的な実験データと不完全な実験計画書の山が残っただけである。何よりのストレスは家族を抱えて、20年近くやってきたことを止めて、1年以内に別の職を探さなければならなくなるかも知れないという生活への不安であった。その点、日本の大学は義務さえ果たせば、少なくとも給料は出る。それが、日本の教官職へ応募してみようと思った動機である。しかし、私の年令からは日本で研究職を続けたいと思えば、教授選に出るという選択しかほぼ残されておらず、私の業績では地方の二流大学が精一杯という事情だったのである。

Thursday, March 19, 2009

まえがき(18)

ここまで書いて、まだまだ、超人と大衆との関係の理解が、私の駄文における悪口の作用を緩衝していれるであろう、と期待することの愚かさに気がついた。私の大衆がそれをさせるのだが、私の超人はそれに反対するのである。
 つい先日、本文での活動の結果を知った。別大学の候補者を採用することにしたとの通知で、自分自身も最初から興味を失っていたので、なんのショックがあったわけでもないが、拒絶の手紙を貰うのは、論文であれ、グラントであれ、何であれ、愉快なものではない。別に欲しくはないのに、正式にやらないと言われるとムッとするのは不思議なものである。
 数ヶ月前、小学校5年生のウチの子供の出来事を思い出した。ウチの子供は普段からよくつるんでいるXとYという二人の友だちがいるが、その二人のうちのお洒落できれい好きのYは、衛生環境を含めて色んな面でおおらかなXを余り快く思っていないようであった。その子から週末電話がかかって来て、遊ばないかとのお誘いであった。ウチの子はもう一人の家に行く約束を既にしていたので、「あいにく、Xのところの行くことになっているけど、よかったら一緒に来るか」と言うのが聞こえた。その子は「Xの家には行きたくない、汚いから」と答えたらしい。そのあと、ウチの子はすぐにXに電話をして、「Yがオマエの家は汚いから行きたくない、と言っていた」と言ったらしい。私は、Xのその電話への返答を聞いて、大笑いしてしまった。
「Yに伝えてくれ。愛してるよ、と」
さわやかな小学5年生である。その後、三人でよくつるんでいる。

憎しみには愛を以て返せと、キリストも言ったではないか。そう思い出して、私が行きたくもないと思った職場を、職場の方から断って来てくれたのだ、これは、感謝すべきことであった、ムッとするようなことではないと思い直し、この二流大学に向かって、愛の電波を送ったのであった。

Monday, March 16, 2009

まえがき(17)

私がスキーを始めたのは社会人になってからである。それまで、高校一年で習った物理法則のために、スキーというスポーツに強い偏見を持っていた。
「位置エネルギーは運動エネルギーに変換可能である」
スキーをするには、電気などのエネルギーを大量に消費しながら、リフトを動かし、スキーヤーを山の上までまず運ばねばならない。このことによって、スキーヤーの位置エネルギーは、まず上昇する。スキーヤーが斜面を滑り降りるにしたがって、位置エネルギーは運動エネルギー等へと変換されて徐々に減少し、麓についた時点でゼロとなる。スキーヤーはまたリフトにのって滑り降りるのを繰り返す。この一連のプロセスにおいて、ある任意のスキーヤーに着目し、位置エネルギーを縦軸に時間を横軸にしてグラフを描けば、ある一定の位置エネルギーの範囲を単調に往復するような波線を描くであろう。線はまず上昇し、頂点に達したあと、徐々に下降する、再び上昇し下降する、それを繰り返す。スキーを始める前の私のスキーというスポーツに対するイメージをあえて言葉にするならば、「位置エネルギーの周期的上昇と下降」であったと言えよう。これは、例えるならば、「人間」とは「下水管に目鼻」であると単純化することに近いかと思う。真理には違いない。人間が下水管であるという観点から、管の上に入れたものが下から出てくるのなら、最初から入れなくても同じじゃないか、という意見は無論、正しい。同様に、スキーが位置エネルギーの周期的変動の後にゼロになるなら、最初から麓のロッジの暖炉の横で、暖かいコーヒーでも飲みながらじっとしていても同じではないかという意見も正しい。更に言うならば、人間、いつか死ぬのだから、最初から生まれて来なくてもよい、という意見も当然である。大衆が「いらんことしい」に向ける冷たい視線には、大衆が恣意に(しかも無意識に)取っているこうした視点が与える価値観によって支えられている。「いらんことしい」が昔の無邪気さで「いらんこと」をする自由は、もう殆ど失われてしまった。スキーというものを知らず、スポーツや野外活動の楽しみを全く理解しないが、エネルギーの無駄には極めて感受性が高い、というような部族が存在したとして、彼らに、なぜスキーが楽しいのか納得できるように説明するときのことを考えてみよ。「太陽がまぶしかったから」という理由でさえ、「いらんことしい」の自由な精神にとっては、充分、煩わしい。「いらんことしい」が大衆の非難の視線の中で、そのアイデンティティーを損なわないために、それを積極的に守るという行為が現代では、不可欠となってしまっている。それが、ムルソーの司祭への「人は皆、特権者であり囚人なのだ」という叫びに象徴されていると言えよう。

Thursday, March 12, 2009

まえがき(16)

以上によって、私が「いらんことしい」であると認識しつつも、この文章と続く本文を書いたその理由を、朧げながら納得していただけたのではないだろうかと想像する。ここで、私が「いらんことしい」をするのは、私は大衆とは違って貴族であると主張したいのではないのか、と勘ぐっている人に対して、あえて、弁解しておきたい。言うまでもなく、大衆とか貴族というのはメタフォアである。人間というのは複数のペルソナをもっている。誰でも大衆的な面があり貴族的な面がある。「いらんことしい」はその貴族的面の特性なのである。カミュの「異邦人」の中で、ムルソーは殺人の理由を「太陽が眩しかったから」と弁明する。そのムルソーの改心を促そうと司祭が牢獄を訪れる。この小説では、ムルソーは間違いなく貴族の象徴として描かれ、対する司祭は大衆である。ついでに言っておくと、この小説に「不条理小説」というラベルを貼付けるのは、間違いなく大衆である。ムルソーの行為を「不条理」と考えること自体が大衆的であるからである。大衆たる司祭にムルソーはいらだち、「誰もが特権者で、誰もが囚人なのだ」と言う。これは、臨済の説法での「君たちは仏に会いたいと思うか?今、わしの前で話を聞いている君たちこそが仏に他ならない」という言葉と相似である(おそらく同意でもある)。ムルソーと司祭を通じて貴族と大衆の対立を描いたこの小説は、しかしながら、貴族と大衆は同一の個人の中に共存しているという観点を強く押し出してはいない。小説の効果を狙うという点から、それは「言わぬが花」ということなのだろう。幸い、多くの読者は既にそのことに気づいているようである。誰もが特権者と囚人であるように、誰もが貴族であり大衆である。このことに同意していただけるのなら、誰もが「いらんことしい」でありながら、誰もが「いらんことしい」を要らぬものと判断するだけの合理性を備えている、という複雑な人間心理も容易に理解できるであろう。

Monday, March 9, 2009

まえがき(15)

紅茶キノコはどう考えても気持ち悪い。その培養上清を飲用するというのは、キッチンのシンクに溜まった野菜くずで作ったスープを飲めというのに等しい。それが、紅茶キノコブームを知らない者の正直な印象であろうと思う。また自分の液状排泄物を摂取する健康法もある。こういった気持ち悪さを抑えて、効果も明らかでない健康増進作用という目的のために、紅茶キノコの培養液なり、排泄物なりを摂取するという行為は、「他にもそういうことをやっている人が周囲にいる」という、殆どその一点のみにその根拠が置かれているものと思われる。仮に排泄物の味が気に入っていても、「おいしいから飲んでいる」と笑顔で説明する人を、私はみたことがない。なぜなら、「排泄物を摂取しておいしいと感じること」は、例えそれが真実であったとしても、大衆の一員としてありたいと願うならば、その他大勢の同胞諸君の同意なしに言明してはならないことからである。「排泄物はおいしい!」と素直に言うことは、大衆にとってのもっとも恐ろしい罰である村八分の刑を受けることを意味すると、大衆は知っている。逆に、大衆が一旦、「排泄物だって、もともとは自分の身から出たものだし、それを摂取して悪いはずはない。おいしくはないが、良く、味わってみたら、まあ、イケるんじゃないか」というような線で、暗黙理に合意が拡大し、それが徐々に大衆に受入れられるならば、「うむ、悪くはない、いや、いいんじゃないか、一体、どうしてこれまでこの素晴らしさがわからなかったんだろう?」という段階を経て、「排泄物はおいしい!」とユニゾンで高らかに宣言できる日が来ることは容易に想像できる。しかし、この大衆がつくりあげるダイナミックな意識はそう長続きしない。なぜなら、その大衆の合意は、「排泄物を摂取するなんて、気持ち悪い」という大衆の気分を意に介さぬ超人の宣言によって、急速に退潮に向かうからである。超人の「いらんことしい」が、大衆の意識の波の方向性を変えるのである。即ち、それが、大衆の慣性にリズムを与えているのである。皆がそう言うから、裸のままでも王様は平気だった。その自信は、超人たる子供の一言によって、もろくも崩れ去ったのである。そういう点で、紅茶キノコ液を服用する人間の局所的なクリティカルマスがどのように形成されて、紅茶キノコが流行し、そして流行が廃れていったのかを考えることは大変興味深いと思われる。これは、フラフープやルービックキューブやタマゴッチなどが流行するのとは、明らかに異なるダイナミクスに支えられていると想像される。紅茶キノコというカビ(であろうと思う)の一種の培養液を飲むという行為は、カビが生えたものを食べるとおなかを壊すことがあるという経験則によって支えられる人間の生存本能とでもいうべきものに反する行為であるように思われる。しかしながら、本来、その生理的な抵抗でさえ、大衆は「皆がやっているから」という単純な規範によって、乗り越えていくのである。そして、おそらくその一点のみに危ういバランスで寄りかかっている大衆の自信は、上に述べたが如く、大衆と価値判断基準を共有しない超人の一言によって、砂上に築いた楼閣の如くに、瞬時にして失われる可能性があると考えられる。これは、まさに大量発生したイナゴが一斉に死への飛行へと飛び立って、空一面を覆い尽くす様を想像させるではないか。

Thursday, March 5, 2009

まえがき(14)

以上から導き出される結論は、「いらんことしい」は、一握りの、大衆ではない者たちの特権であるということである。周囲のその他大勢と同じであることに価値を認めず、その他大勢から村八分にされることに恐怖を感じない、そのような誇り高い超人にのみに与えられた特権である。あるいは、ほとばしる「生」のエネルギーを自ずから一人、素手で掴もうとせんが如くである。さもなくば、大衆が周囲の者と同様に行動するという矩に従って、大衆が一斉に「いらんことしい」を始めたら、その行為の汎在性によって、「いらんことしい」が「いらんことしい」で無くなってしまうというパラドックスに落ち入ってしまう。携帯電話を思い浮かべてみよ。私は携帯電話を持っていない。携帯電話が発明される前から、私は電話で相手の顔を見ることなく人としゃべるということが嫌いであったから、電話は余程の必要が無い限り使わなかった。そんな私にとって、スーパーや道ばたなどの公の場所で、わざわざそこに居ない誰かに電話をすること自体、「いらんことしい」である。公けの場所で考え事をしている時に、横にいる他人が電話でどこかに遠く離れた人間と話し出したりすると、迷惑である。然るに、国民の大多数が、電話を携帯し、ところ構わず携帯電話を愛する同胞たる大衆に電話をかけるという行為が近年かくも一般化したため、その汎在性によって、大衆にとっての携帯電話で会話をするという行為は、すでに「いらんことしい」で無くなってしまった。公の場所でところ構わず、電話をするという行為そのものが変化したのではなく、「いらんことしい」を判断する大衆の基準が変化したのであり、その理由は、「皆がやっているから」である。「皆がやっているから」という理由で、ポイ捨てしたり、赤信号を無視したりしてはいけないと、私は学校では教わった。にもかかわらず、「皆がやっていることが正しい」とする大衆の価値基準は、「誰も、学校で教わった正しいことは守っていない(だからこそ、学校で教えるとも言えるのであるが)」という認識によって、「ある種の正しいことを行うことは正しくない」という矛盾語法が瞬時にして正当化され、「正しさ」はダイナミックな大衆の行動規範によって、常に上書きされてしまう。ならば、大衆とは赤信号を皆で渡る者であると定義してもあながち誤りにはなるまい。

Monday, March 2, 2009

まえがき(13)

「いらんことしい」のない世の中を考えてみよ。それは、喩えて言うならば、クリープを入れないコーヒーとクリープを入れたコーヒーを、違いの分かる男が飲み比べて「違わぬ」と断言するほどに、味気ない世界である。蛇足を承知で付け加えさせていただくが、ここにおいて、クリープは「いらんことしい」のメタフォアであると捕えてはならない。「クリープを入れても入れなくても違わない」という、(クリープの身になってみれば)外部世界からの絶対否定、存在の拒絶、言いようのない虚しさ、やるせなさ、そういった機微を無神経に無視することによって達成される、スムーズできれいな世界、それが「いらんことしい」のない味気ない世界であると言っているのである。即ち、「いらんことしい」は存在の悲しみである、たとえば狐の革ごろもである。無いからといって、なぜ困るのか、言葉にしにくい。しかし、あるいは、それこそが、人間と動物を、貴族と市民を、超人と畜群たる大衆を、分けているものの正体なのではないのか。大衆は周囲の人間と同様であることという相対的かつ表面的な特性に価値を求めながら、その根拠に意識的でない。にもかかわらず、その価値判断基準に極めて高い自信を持った存在である。一方、超人たる貴族は「いらんことしい」である。それは、その他大勢と同様であるという状態に価値を認めないからである。一方、逆に、トイレに醤油瓶を流してトイレを詰まらせるという行為に、大衆は価値を認めない。なぜなら、同胞たるその他大勢の人々はトイレに醤油瓶を流さず、同胞たるその他大勢の人々が流すと同様のものを流したがるからである。このトイレに決まったものを流し続けるという行為において、大衆には、トイレがそもそもそういう目的のために設計されているという歴史的事実に、すでに自覚的でない。大衆は、単に、周囲の皆がそうするからという理由で、トイレに皆と同じものを無批判に流し続けるのだ。だから、トイレに自分たちが流すものと違うものを流すと、批判し、後ろ指を指し、村八分にする。自らと異なるものを村八分にするという行為そのものが、痛烈な大衆自身の自己批判となっていることに、大衆は悲しくも気づかない。