Thursday, March 12, 2009

まえがき(16)

以上によって、私が「いらんことしい」であると認識しつつも、この文章と続く本文を書いたその理由を、朧げながら納得していただけたのではないだろうかと想像する。ここで、私が「いらんことしい」をするのは、私は大衆とは違って貴族であると主張したいのではないのか、と勘ぐっている人に対して、あえて、弁解しておきたい。言うまでもなく、大衆とか貴族というのはメタフォアである。人間というのは複数のペルソナをもっている。誰でも大衆的な面があり貴族的な面がある。「いらんことしい」はその貴族的面の特性なのである。カミュの「異邦人」の中で、ムルソーは殺人の理由を「太陽が眩しかったから」と弁明する。そのムルソーの改心を促そうと司祭が牢獄を訪れる。この小説では、ムルソーは間違いなく貴族の象徴として描かれ、対する司祭は大衆である。ついでに言っておくと、この小説に「不条理小説」というラベルを貼付けるのは、間違いなく大衆である。ムルソーの行為を「不条理」と考えること自体が大衆的であるからである。大衆たる司祭にムルソーはいらだち、「誰もが特権者で、誰もが囚人なのだ」と言う。これは、臨済の説法での「君たちは仏に会いたいと思うか?今、わしの前で話を聞いている君たちこそが仏に他ならない」という言葉と相似である(おそらく同意でもある)。ムルソーと司祭を通じて貴族と大衆の対立を描いたこの小説は、しかしながら、貴族と大衆は同一の個人の中に共存しているという観点を強く押し出してはいない。小説の効果を狙うという点から、それは「言わぬが花」ということなのだろう。幸い、多くの読者は既にそのことに気づいているようである。誰もが特権者と囚人であるように、誰もが貴族であり大衆である。このことに同意していただけるのなら、誰もが「いらんことしい」でありながら、誰もが「いらんことしい」を要らぬものと判断するだけの合理性を備えている、という複雑な人間心理も容易に理解できるであろう。

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