Monday, March 9, 2009

まえがき(15)

紅茶キノコはどう考えても気持ち悪い。その培養上清を飲用するというのは、キッチンのシンクに溜まった野菜くずで作ったスープを飲めというのに等しい。それが、紅茶キノコブームを知らない者の正直な印象であろうと思う。また自分の液状排泄物を摂取する健康法もある。こういった気持ち悪さを抑えて、効果も明らかでない健康増進作用という目的のために、紅茶キノコの培養液なり、排泄物なりを摂取するという行為は、「他にもそういうことをやっている人が周囲にいる」という、殆どその一点のみにその根拠が置かれているものと思われる。仮に排泄物の味が気に入っていても、「おいしいから飲んでいる」と笑顔で説明する人を、私はみたことがない。なぜなら、「排泄物を摂取しておいしいと感じること」は、例えそれが真実であったとしても、大衆の一員としてありたいと願うならば、その他大勢の同胞諸君の同意なしに言明してはならないことからである。「排泄物はおいしい!」と素直に言うことは、大衆にとってのもっとも恐ろしい罰である村八分の刑を受けることを意味すると、大衆は知っている。逆に、大衆が一旦、「排泄物だって、もともとは自分の身から出たものだし、それを摂取して悪いはずはない。おいしくはないが、良く、味わってみたら、まあ、イケるんじゃないか」というような線で、暗黙理に合意が拡大し、それが徐々に大衆に受入れられるならば、「うむ、悪くはない、いや、いいんじゃないか、一体、どうしてこれまでこの素晴らしさがわからなかったんだろう?」という段階を経て、「排泄物はおいしい!」とユニゾンで高らかに宣言できる日が来ることは容易に想像できる。しかし、この大衆がつくりあげるダイナミックな意識はそう長続きしない。なぜなら、その大衆の合意は、「排泄物を摂取するなんて、気持ち悪い」という大衆の気分を意に介さぬ超人の宣言によって、急速に退潮に向かうからである。超人の「いらんことしい」が、大衆の意識の波の方向性を変えるのである。即ち、それが、大衆の慣性にリズムを与えているのである。皆がそう言うから、裸のままでも王様は平気だった。その自信は、超人たる子供の一言によって、もろくも崩れ去ったのである。そういう点で、紅茶キノコ液を服用する人間の局所的なクリティカルマスがどのように形成されて、紅茶キノコが流行し、そして流行が廃れていったのかを考えることは大変興味深いと思われる。これは、フラフープやルービックキューブやタマゴッチなどが流行するのとは、明らかに異なるダイナミクスに支えられていると想像される。紅茶キノコというカビ(であろうと思う)の一種の培養液を飲むという行為は、カビが生えたものを食べるとおなかを壊すことがあるという経験則によって支えられる人間の生存本能とでもいうべきものに反する行為であるように思われる。しかしながら、本来、その生理的な抵抗でさえ、大衆は「皆がやっているから」という単純な規範によって、乗り越えていくのである。そして、おそらくその一点のみに危ういバランスで寄りかかっている大衆の自信は、上に述べたが如く、大衆と価値判断基準を共有しない超人の一言によって、砂上に築いた楼閣の如くに、瞬時にして失われる可能性があると考えられる。これは、まさに大量発生したイナゴが一斉に死への飛行へと飛び立って、空一面を覆い尽くす様を想像させるではないか。

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