Thursday, April 30, 2009

一の巻(12)

この地で、「人は城、人は石垣、人は堀」という言葉を知らない人はいない。大学にとって優秀な研究者は財産であるという考えを日本の二流大学は受入れることができない。だから一流になれないのだ。よい花を咲かせようとすれば、肥料や水やりは欠かせない。よい土を入れて日当りのよい場所に植えて、水やりや肥料を欠かさず、世話してはじめて、よい花が咲くのである。日本の二流大学には、そもそも、よい花を咲かせようというような良心のアカデミズムというものがない。花が咲こうと咲くまいと知った事ではない、花壇はあるのだから、枯れたら、違うのに植え替えればよい、としか思っていないのである。だから、いつまでたってもよい花が咲かないのである。

Monday, April 27, 2009

一の巻(11)

日本に欠けているものは、余裕とか遊びとかである。ムダな空間や時間である。日本人の効率主義で、ムダな時間や空間は本当に無くすべき「ムダ」であると思っているのではないだろうか。だから、あれほど、建築物が醜いのである。限られた空間に、家が家として機能出来るぎりぎりの設計でものを建てるから、ああなるのだ。確かに家としての機能、つまり、夜露を防ぎ、生命活動を維持するだけの空間を与えることは出来ている。しかし、それだけである。だから貧しい。人はそんな家では生きることはできても、生活を楽しむことはできない。都市もそうである。都市を歩いて景色を楽しむように設計されていない。そこには、働く人々が昼間、仕事をするという機能を果たせるぎりぎりのスペースが確保されているに過ぎない。楽しく仕事をするとか、楽しく生活するとかという発想がないのである。教官選考もそうである。それを人との出会いであり、学問的啓発を得る機会と捕えようという発想がない。知らない同業の研究者と食事にいって情報交換をし、ネットワーキングしようという発想がない。教授を選考するのに最小限のリソースしかなく、候補者は、仕事をもとめる失業者で、大学は就職を世話してやる職業安定所だというような発想なのである。つまり、やとってやるという態度なのである。

Thursday, April 23, 2009

一の巻(10)

はっきり言って、なぜ、この大学が二流大学であるのか、よく理解できた発表会であった。しかし、自分の業績からは、二流大学にしかチャンスがないのは分かっているので、ちょっと気分の滅入る面接となった。もしオファーが貰えても、ここで二流の研究者として、糊口をしのぐためだけに就職するぐらいなら、お医者さんに戻って地域医療に貢献する方が上である。きっとその方が世の中のためになりそうな気がする、そう思った発表会であった。(一度だけなら多くの事柄は経験に値する、とポジティブに考えることにする)
 その日の夜は、一人で土地のおいしいものでも食べて、ゆっくりするはずであった。少しタクシーに乗れば、温泉町もある。しかし、気分は暗く、日本の田舎町と田舎大学に対する後味の悪さだけが残って、楽しくすごそうという気持ちになれなかった。夜になると気温がさがってきた。この田舎町でも幹線沿いには、インドやスリランカから出稼ぎに来た人たちがやっている料理店が散在する。駅前には白人系の外国人もちらほらする。日本のこの規模に田舎町で外国人をみるなど、昔はなかったことである。不景気で東京から押し出されたのだろうか、などと考える。田んぼや畑の前の幹線道路で、客寄せのために、旗を振っているインド人の姿を見るのは悲しい。ある小学校の給食に、うどんとひじきとクロワッサンが出たという話を読んだことがあるが、田んぼと畑とインド人、という組み合わせも、パッとしない。空腹となってきたので、せめて、名物ほうとうでも食べて、暖まるかと思って、駅前のほうとう屋にはいると、「ほうとうは30分以上かかる」と言われて、がっくりする。極太麺なのでゆでて煮込むのにそれだけかかるのだそうだ。それで、15分でできるという「おざら」というのを注文した。同じような極太麺だが、煮込まないので多少早い。ゆでたら、水で「さらさら」とすすいで冷やすので、「おざら」というそうである。妙なことに、この冷たい麺を具の入った暖かいツケ汁につけて食べる。これは、どう考えてもおかしい。ツケ汁は生温くなり、麺は外側だけがヘンに暖かい。味付けはともかく、この生温さでは、おいしさ半減である。どうして釜揚げにしないのか、あるいは逆に冷たいタレにしないのか、と心の中で文句を言いながら食べる。食べ終わって、寂しい駅前をとぼとぼと昭和の匂いのするひなびた安ホテルに帰った。そして、この悪口を書き始めたのであった。

Monday, April 20, 2009

一の巻(9)

しかし、発表の後の質問では、私は、実際の現場の中の多少敵意さえ感じられる意地の悪い視線や質問に辟易とした。この忙しいときに興味のない教授選にわざわざ時間をさいて来てやっているのだ、という態度があからさまな若い教官もいる。その点、医学部長は大人で人の扱い方を知っている。こちらにしてもも、家族とのクリスマス休暇をキャンセルして、楽しんでもらえるような話をしようと、遠路はるばるやってきたのである。面接とは言え、お互い、歩み寄って、楽しいひと時を過ごせるように努力するのが、人としてのたしなみではないか。聴衆の多くはそこの大学教授で、臨床教授は余り私の話には興味がないという感じで、義理を果たすためにそこに座っているのだいう様子。基礎講座の二三の若手教授は、話に興味を持ってくれて、いい質問をしてくれた。応募教室の別の教官は、将来、私が教授になったりしたら、追い出されるかも知れないと警戒してか、アメリカのグラントは持って来れないだろうとか、日本の科研の申請経験はあるのかとか、Noの答えを期待して、聞いてきたが、彼の期待に反して、私が全部にYesと言ったので、中途半端に質問を打ち切ってしまった。もう一人の聴衆の若手教授は、私が教育のことに発表で触れなかったので、「教授選の発表で教育に触れないのでは教授候補として評価のしようがない」とチャレンジして来た。この人の経歴はインターネットで見て知っていた。イギリスでしばらく独立してやっていて、そこそこの仕事を出した「有能な」若手である。国内の事情しか知らないならともかく、海外での経験があるのだから、教官の選考がどういうものか知っているはずだと思っていた私にとって、このチャレンジは意外であった。こういう礼儀知らずの若手は始末におえない。選考の相手は経験ある同業者なのである。学会での発表で、同業者に対してこんな質問の仕方をする奴はいない。こちらも「仕事をめぐんで下さい」と懇願しているのではないのである。教官職の選考というのは、大学側が選考すると思っているのかも知れないが、勿論、応募者側の大学の選考でもあるのである。大学教官の選考とは、いわば、「お見合い」的な活動なのだ(少なくともアメリカでは)。その辺のことを理解していないのか、あるいは、オレはこの大学の教授でオマエは求職者だ、オレはオマエより偉いのだ、とでもいうようなくだらないbigotryでもあるのか、「不愉快」と書いたような顔をこちらに向けてにこりともしない。もし私の教育抱負について本当に知りたいのなら、「教育についての言明が余りありませんでしたが、大学医学部は教育も重要な使命でありますので、教育への抱負をお聞かせ戴けませんか」と聞くのが筋である。私は教育について思うことがないわけではなかったのだが、現在教育には殆ど携わっておらず、発表時間も限られていたので、研究を主体に話しただけのことなのである。それに、私も教育に情熱があるわけではないし(そもそも、大学の基礎講座の教授選に応募する人で教育に情熱を燃やしているような人がいたら、お目にかかりたい)、現在教育には殆どタッチしていないので、教育について述べないという発表のストラテジーは意図的なものであって、それをどのように解釈するかは聴衆の自由なのである。本当に知りたかったら、普通にものを尋ねるときの作法を従ってストレートに尋ねればよいのである。彼は自分も同時に私や他の人に評価されているということを理解していないのかもしれぬ。あるいは、教授選では相撲部屋のしごきのように、多少、相手をイビッてやるのが聴衆としての務めであると勘違いしているのかも知れない。それで、私は彼よりは少なくとも人間的には大人であるから、もちろん、にこやかに念のために用意をしていた教育への抱負のスライドを出して、やりたくもない熱弁をふるうことになったのであった。

Thursday, April 16, 2009

一の巻(8)

 例えれば、これは、答案に名前を書き忘れたら答えが全部あっていても、0点にするという、日本お得意の減点式採点法である。名前を書き忘れるような奴に教官が務まる訳がない、日本語がちゃんとしゃべれない奴は研究ができるわけがない、そんなように候補者の能力を推測するやりかたである。事実、名前を書き忘れたり、仕事に必要なコンピューターを置き忘れたり、発表スライドを間違えたりするおっちょこちょいの優秀な教授は山のようにいる。彼らはもっと重要なことに意識を割いているから、細かいことを忘れるのである。こんな選考方式をとる大学が、研究とはなんたるか、大学教官の資質がどうあるべきか、とても理解しているとは思えない。そこの教官には、将来の自分たちの同僚が自分の大学や自身の研究にどのように益してくれるかということを評価しようとする真摯な態度がない。優秀な教授を迎えて、大学の研究レベルを上げ、皆で向上しようとする気持ちが全く汲み取れない。早い話が、そこの教官には、自分はここの教授であり、現在の生活の安定は取りあえず達成できたので、誰が来ようと義務さえ分担してくれたらそれで構わない、新しく来る奴の研究なんかどうでもよいと思っているように感じられるのである。こういう態度を私は、負け犬根性と呼ぶ。あるいは、がちがちの体制のなかで、皆心ならずも、やむを得ず従っているだけなのかも知れない。

Monday, April 13, 2009

一の巻(7)

アメリカでは何度か就職活動で面接に行ったこともあるし、セミナーに呼ばれたこともあるので、研究者の就職活動がどのように行われるかについて漠然とした予想というか期待があった。今回は、教授選ということでもあり、いくら何でも、それなりの対応があるのであろうと思っていた。アメリカでは、もっとジュニアの教官職であっても、普通2日の日程で、1時間ずつの発表を二回行い、10人以上の教官との個人面談があり、夜はそれなりのレストランに連れて行ってもらって食事のもてなしがある。丁寧なところだと空港まで、教室のチェアの人自ら送り迎えする。つまり、それだけの時間と金を使って、候補者をじっくり吟味すると同時に、よい人があれば、オファーを出した場合に向こうが是非来たいという気持ちにさせるようなもてなしをするのが普通である。勿論、そうした職には、多ければ数百の応募があって、倍率だけみれば、買い手市場のように見えるのだが、現実は、優秀な人を見つけるのはそう簡単ではなく、大学側もその点をよく承知しているから、面接に2日の時間をかけ、もてなすのである。日本の大学がこうした活動にどれだけ吝嗇かはある程度想像していたので、晩飯を奢ってもらおうとか、駅まで送迎リムジンをだしてもらおうとかは、勿論、全く念頭に無かった。しかし、面接が発表30分、質問10分、個人面談20分という合計1時間のスケジュールには、正直、恐れ入った。アメリカではジュニアの教官を雇うときでさえ、その20倍近くの時間をかけて、お互いを理解し合い、将来の仲間となる人を選ぶという目で面接をするのである。初対面で書類でしか知らない人とのたった一時間の面談、そんなもので何がわかるのか。だいたい、30分で研究、教育の概要と抱負を発表しろというのが無理である。今やっている研究の一部だけでも30分では足りない。普通、研究だけのセミナーでも1時間やる。それは1時間必要だからである。この30分の発表で、聴衆がわかることは、言葉がちゃんとしゃべれるか、コンピューターが使えるか、ビンボウゆすりとか変な癖がないかとかいう、研究能力を評価するのに余り役に立たない情報ぐらいである。

Thursday, April 9, 2009

一の巻(6)

時間に近づいたので、スターバックスを出て、地理のわからない病院と大学の敷地をうろうろし、その辺で大掃除の最中らしい事務員のような人に道を聞く。愛想は悪いが、わざわざ二階まで案内してくれる。管理棟の薄暗い廊下の突き当たりにある医学部長室に通された。さすがに広々とした絨毯ばりのオフィスで、大きな革張りのソファーセットがあって、剥製とかの置物がかざってあったりする。しかし、革張りソファーの皮の一部はすり切れているし、絨毯の色は褪せて安っぽいし、窓の木枠はシミ状に汚れている。こういったものの修繕に回す金がないのだなあ、とわびしい気持ちにさせられた。応対してくれた秘書の人は、「今、三番目の方の面接が進行中ですので、もう少しお待ち下さい」と言った。私は、どうもトリのようであった。教授選の面接を数人をまとめて、同一日にやるというやりかたに、私はまたまたショックを受けた。ここの大学の選考側は、教授職に応募してきた仮にも長年研究という活動に地道に取り組んできたプロの学者に対して、会社の新入社員を雇うときのような対応しかしないのである。早い話が、プロを迎え入れるという態度ではなく、「雇ってやる」という一段上からの卑しいやり方なのである。その後の選考委員長の話の様子からは、こういう形式をとるのは、学者という同業者に対して、さすがに失礼であるとは思っているらしいことが見て取れた。(大学に予算がないので、こんな面接になってしまったのです)と心の中では、ちょっとは申し訳ないと思っているような話ぶりだった。

Monday, April 6, 2009

一の巻(5)

大学は田舎の畑の中にある。二十年前の独身時代だったら好きになれたかも知れない。時間には早かったので、病院の正面口のところにできたスターバックスでコーヒーを飲む。日本の昔の喫茶店のコーヒーはもっとおいしかったと思う。神戸では西村コーヒーは会員制の店を持っていたぐらいだ。店員の人の愛想はよい。日本の接客小売業は立派だと思う。一息入れて、もって来た雑誌に目を通す。私は、何時にどこどこに行くということが嫌いである。余裕をもっていくといつも余裕を取り過ぎて時間を持て余すし、時間きっちりに着こうとすると間に合わないかも知れないと思って気が急く。そして、実際しばしば遅れる。誰かが、ぼーっとしていても、所定の場所に連れて行ってくれるというのが理想である。そうすれば、時間のことに気を散らすことなく、自分の仕事に集中できると思う。日本には昔から、時間を管理するのも自分の仕事であるし、下らない会議に出たり、つまらない事務書類を書くのも仕事のうちであって、そんな仕事さえ満足にできない者が、本業の仕事を十分に遂行することなどできない、という馬鹿げた観念があるように思う。人間を社会を構成する機械の1ピースと看做しているからであろう。人は社会が期待しただけのことを間違いなくやれればそれでよい、それ以上のことは勝手にやりなさい、という感覚である。この感覚は、学者や作家や起業家であろうと、サラリーマンやアルバイトであろうと同様である。例えば、自動車の生産ラインの人が期待されたことを行わず、勝手に行動すれば、まずいのは良くわかる。それは非常に限定された仕事を達成するという目的があるからである。然るに、学者や作家や起業家にとって同様の資質はむしろ害である。彼らの目標は彼らが設定するのであって、他から言われて働いているのではないからである。日本人の創造性をもっともダメにするのが、創造的仕事に自動車生産ラインでの仕事のモラルをそのまま適用しようとすることであろうと思う。そんなことを考えながら、スターバックスで時間を潰す。外はもう冬の夕暮れが近づいて来ている。どんよりした曇り空が暗くなってきた。

Thursday, April 2, 2009

一の巻(4)

所定の時間に間に合うように、単線電車に乗る。平日でも一時間に1-2本しか運行していない。単線のせいか、始終止まっては、時間待ちをする。その間、車内の温度を保つためか、ドアが閉まる。その間に乗り降りしたい人は、ドアの横にあるボタンを押して乗客自らドアを開け閉めするのである。大学最寄りの駅は電車で15分ほどの無人駅だった。降りるときは、先頭車両まで行かなければならない。駅で止まると、運転手がいきなり振り向いて、客室との境の窓を開け、切符を受け取ったり、清算をしたりするシステムなのである。無人駅をぐるりと回って、駅の南側の畑と住宅が混在する通りを大学方面へと下る。幹線道路を除けば、畑のあぜ道を拡げて舗装したという感じの通りである。背広を着てスーツ鞄を下げた中年の男の人が面白くないような顔をして、駅の方向へ歩いてくるのとすれ違った。(あとから思えば、今回の教授選の別の候補者だったのだろう)