Monday, April 20, 2009

一の巻(9)

しかし、発表の後の質問では、私は、実際の現場の中の多少敵意さえ感じられる意地の悪い視線や質問に辟易とした。この忙しいときに興味のない教授選にわざわざ時間をさいて来てやっているのだ、という態度があからさまな若い教官もいる。その点、医学部長は大人で人の扱い方を知っている。こちらにしてもも、家族とのクリスマス休暇をキャンセルして、楽しんでもらえるような話をしようと、遠路はるばるやってきたのである。面接とは言え、お互い、歩み寄って、楽しいひと時を過ごせるように努力するのが、人としてのたしなみではないか。聴衆の多くはそこの大学教授で、臨床教授は余り私の話には興味がないという感じで、義理を果たすためにそこに座っているのだいう様子。基礎講座の二三の若手教授は、話に興味を持ってくれて、いい質問をしてくれた。応募教室の別の教官は、将来、私が教授になったりしたら、追い出されるかも知れないと警戒してか、アメリカのグラントは持って来れないだろうとか、日本の科研の申請経験はあるのかとか、Noの答えを期待して、聞いてきたが、彼の期待に反して、私が全部にYesと言ったので、中途半端に質問を打ち切ってしまった。もう一人の聴衆の若手教授は、私が教育のことに発表で触れなかったので、「教授選の発表で教育に触れないのでは教授候補として評価のしようがない」とチャレンジして来た。この人の経歴はインターネットで見て知っていた。イギリスでしばらく独立してやっていて、そこそこの仕事を出した「有能な」若手である。国内の事情しか知らないならともかく、海外での経験があるのだから、教官の選考がどういうものか知っているはずだと思っていた私にとって、このチャレンジは意外であった。こういう礼儀知らずの若手は始末におえない。選考の相手は経験ある同業者なのである。学会での発表で、同業者に対してこんな質問の仕方をする奴はいない。こちらも「仕事をめぐんで下さい」と懇願しているのではないのである。教官職の選考というのは、大学側が選考すると思っているのかも知れないが、勿論、応募者側の大学の選考でもあるのである。大学教官の選考とは、いわば、「お見合い」的な活動なのだ(少なくともアメリカでは)。その辺のことを理解していないのか、あるいは、オレはこの大学の教授でオマエは求職者だ、オレはオマエより偉いのだ、とでもいうようなくだらないbigotryでもあるのか、「不愉快」と書いたような顔をこちらに向けてにこりともしない。もし私の教育抱負について本当に知りたいのなら、「教育についての言明が余りありませんでしたが、大学医学部は教育も重要な使命でありますので、教育への抱負をお聞かせ戴けませんか」と聞くのが筋である。私は教育について思うことがないわけではなかったのだが、現在教育には殆ど携わっておらず、発表時間も限られていたので、研究を主体に話しただけのことなのである。それに、私も教育に情熱があるわけではないし(そもそも、大学の基礎講座の教授選に応募する人で教育に情熱を燃やしているような人がいたら、お目にかかりたい)、現在教育には殆どタッチしていないので、教育について述べないという発表のストラテジーは意図的なものであって、それをどのように解釈するかは聴衆の自由なのである。本当に知りたかったら、普通にものを尋ねるときの作法を従ってストレートに尋ねればよいのである。彼は自分も同時に私や他の人に評価されているということを理解していないのかもしれぬ。あるいは、教授選では相撲部屋のしごきのように、多少、相手をイビッてやるのが聴衆としての務めであると勘違いしているのかも知れない。それで、私は彼よりは少なくとも人間的には大人であるから、もちろん、にこやかに念のために用意をしていた教育への抱負のスライドを出して、やりたくもない熱弁をふるうことになったのであった。

No comments:

Post a Comment