Thursday, February 26, 2009

まえがき(12)

いよいよ筆を置く時が近づいて来た。永遠に「まえがき」を書き続けるわけにはいかない。挨拶は別れの始めと言う。現世は流れる川のごとし、人の生はその淀みに浮かぶ泡のごとき存在である。僅かな間、水の表面に丸く浮かんでは、陽の光を一瞬キラリと反射して、はじけて消えていく。死があるから生は尊い、終わりがあるから遊びは楽しい。本文やあとがきがあるからまえがきが意味を持つ。無理を承知で付け加えさせて頂くなら、「いらんことしい」があるから「要ること」が為されるとも思う。否、「いらんこと」を極め、これでもか、これでもか、と「いらんこと」をすることは、畢竟、「要る」を生ずるのであると、私は積極的に「いらんことしい」を肯定したい。上の息子が4-5歳ごろは「いらんことしい」であった。トイレの能力を調べるために、醤油の瓶を流す実験とか、ケチャップの芸術性を検討するために、新品の洋服や台所の床にアートしてみるとか、私にはちょっと思いつかないようなアイデアを披露してくれた。また、バラエティーに富んだ「親の我慢の限界を確かめる実験」の独創性には、ほとほと感心したものである。これらの「いらんことしい」が、どれだけ私たちの人生を豊かにしてくれたか、と振り返って考えてみれば、「いらんことしい」に感謝の言葉もない。

Monday, February 23, 2009

まえがき(11)

中高一貫教育だった私の母校で3年上のプログレッシヴロックグループ、「ブレインウェーブ」はディストーションの効いたギターを全面に押し出し、スケール、和音進行、モードといった従来の音楽常識の枠にとらわれない前衛的演奏で文化祭の人気グループとなった。後に判明したところによると、リードギタリストは、スケールとか和音進行とかの音楽常識そのものを知らなかったらしい。よって、すべての演奏は既存のロック音楽のアンチテーゼとしてではなく、謂わば、「de novo」のアヴァンギャルドというべきものにならざるを得なかったという事情であった。それはともかく、そのブレインウェーブのメンバーの同級生によって結成され、三和音循環コードを究極教義とするフォークグループ「いらんことしい」のリーダーは、彼女からのプレゼントの舞台衣装である「IRANKOTOSHI」と胸に赤文字で編み込まれた白いセーターを着て、古き良きフォークソングを歌うのであった。人間のあらゆる行為は原則的に「いらんことしい」であるという当時高校生であった彼らの慧眼は注目に値する。故山本夏彦氏が言った「私のやることは全て死ぬまでの暇つぶしである」との観に通ずる。むしろ、「暇つぶし」には自己満足的な閉鎖感があるが、「いらんことしい」には、自ずからの枠を越えて、社会に働きかけようとする積極性のようなものが感じ取られるという点で、よりスケールが大きいとも言えよう。

Thursday, February 19, 2009

まえがき(10)

以上のように、書き手と読者との関係、読書における想像力の重要性について論じて来たわけであるが、それは、元を正せば、この「まえがき」が、続く本文が与えるであろう読者の不快感ならびに筆者に対する反感を多少なりとも軽減せんことを欲したゆえであることは文頭に述べた通りである。人が不愉快になるようなものをわざわざ書くぐらいならば、公けにせず、こっそり秘密の日記にでも記せば良かろうという意見が出てくることは自然であると思う。これは、永井荷風的「襖の下張」心理と脈を通ずるものであることは言うまでもない。然しながら、発禁覚悟で「四畳半襖の下張」の出版を断行した、野坂昭如の反体制気質とは趣を異にするものであると、念のため断っておきたい。「襖の下張」に反体制意識はない。それは繊細で多少屈折した純粋な表現欲の発露である。野坂はその芸術性ゆえに「襖の下張」が反体制に利用できると考えたに過ぎない。話をもとに戻そう。読者の不快を想定してとしてまえがきで予防線を張るという行為をあえて行うことは、本文がある種の純粋な表現欲の発露である場合は、正当であると考えられる。然るに、私自身は、続く本文が表現欲の発露であるという認識はない。私の筆が走るがまま、ごく自然に、書き付けただけである。読む人によっては、友だちに向かって「おまえのかーちゃん、デベソ!」と子供が叫ぶと同等の価値しか認め得ないことは十分考えられる。勿論、「おまえのかーちゃん、デベソ!」と叫ぶ行為に芸術性の一片を認め得る者のあることも想像に難くない。夕日に向かって、思いっきりこの言葉を叫ぶならば、それはただの安っぽいパロディーにしかならない。しかし、世界の中心で、誰に向かって言うわけでもなく、そしてそのシニフィエを超越した境地において、この言葉が詠われるならば、それは一編の詩である。「デベソ」という言葉が、背景から切り取られ、違った角度から眺められることによって、詩性は読み取られる。いうまでもないが、「デベソ」には内在的な芸術は存在しない。ポジションが「デベソ」を昇華させるのである。話をもとに戻そう。言わなければ何の問題にもならないことを、わざわざ言って、問題を作り上げておきながら、その問題を自ずから解決しようとするような態度は、仮に「襖の下張」的芸術性に貫かれていたとしても、やはり屈折している。この自己矛盾を私は、逆マッチポンブと名付けよう。あるいは、わが母校の軽音楽部の伝説のフォークグループの名に因んで、「いらんことしい」と呼んでもよい。火のないところに火をつけて煽っておいた上で自ら消火活動にあたり、その混乱に乗じて利己益を図るというのがマッチポンブなら、私のやっていることは、その行いによって、むしろ「不益を被る」可能性が高いという点で、確かに、やらない方がよい活動と言える。

Tuesday, February 17, 2009

まえがき(9)

例えば、数学のクラスにいない子が「今現在、数学の問題を解いていない」と結論できないことは自明である。クラスにいないことから分かる事は「数学の問題を解いているという証拠はない」ということだけである。だから本当は数学のクラスをさぼって校舎の屋上で、「ナビエ-ストークス方程式の解の存在と滑らかさ」についての考察を行っている最中かもしれないし、あるいは、やはり単にさぼって映画を見に行っているだけかもしれない。数学のクラスにいないということから、私たちは、単純に「またさぼって、映画でも見ているのだろう」という、より可能性の高い結論に安易に手を伸ばしたがるが、われわれはそこで一瞬、留まって、「証拠がない」ことは「ないことの証拠」にはならないということに意識的に注意を払うべきであろうと思う。「ない」ことをできるだけ厳密に言いたければ、多くのコントロールをとって、「あるとは言えない」という段階から「ない可能性がかなり高いと考えられる」というレベルまで持ち上げていかねばならない。そのためのコントロールは常に簡単に見つかるとは限らないし、多くの可能性を想像すればするほど、各々の可能性に対する数多のコントロールを用意しなければならない。よって、通常、単に「ない」という言明の多くは、「何かのあるべきものがあるべき所にない」という限定的な「ない」をはるかに超越したものであることが多く、よって、限定なしの「ない」という結論には常に弱みがあることに、われわれは意識的でなければならない。即ち、「ない」というnegativeな表現を肯定的に断言するという行為は、場合によっては、無数ともいえる「ない理由」の可能性の一つ一つを否定した末に茫洋と現れたものを確信的に捉えることであると私は定義する。したがって、私が「想像できない」と書いた事を持って、私が想像力の乏しい横着者であると早合点した読者には誤解がないように申し上げたい。私は横着者ではあるが、想像力は乏しくない(と少なくとも私は信じている)。更に言えば、私は想像力の豊かな横着者なのである。そして、このまえがきでも「です、ます」調では書かないという横着をしながら、あえて、言い訳がましいことを長々と書き連ねているというこの事実に、私の想像力と横着力のコンフリクトが発する摩擦熱を感じことのできる想像力豊かな読者も少なくはないであろうことを、現に私は想像できるのである。

Thursday, February 12, 2009

まえがき(8)

ここで、私が「想像できない」と書いたことに対して、想像力の乏しい読者は、「それは想像力が豊かである」と言った私自身の前言に反するのではないか、と反論するものもあろうかと思うので、あらかじめ、説明しておきたい。「想像できない」とは「想像力が乏し過ぎて想像するという行為遂行が不可能になる」のではない。むしろ、あらゆる想像力を駆使して、想像力の及ぶところをくまなく細心の注意を持って眺め、その想像力を持って、想像力の及ばない領域をあえて想像してみても、なお、その事象というものが、想像力の絶対限界の外に存在するということを見極めた、との意である。喩え話をしよう。科学ではネガティブデータを嫌う。なぜなら、「ない」ということを、厳密性を持って断言するのは困難だからである。「ない」には沢山の理由がある。今日、学校を休んでクラスにいない子供が、どこで何をしているかはまずわからない。一方、クラスにいる子供が何をしているかを知るのは容易である。統計では「有意な差の有無」の検定は、帰無仮説を棄却することによって行う。即ち、「差がある」ということを直接証明することはできないので、一旦「差がない」と仮定した場合に、観察された事象が統計的確率に合致しないことを示して、その「ない」という仮説を棄却し、「なくは無い」という二重否定によって、「ある」ことを証明するのである。このように「ある」ということは「ない」の否定により証明できる一方、「ない」ことは「あるとは言えない」、即ち、「なくはないとは言えない」という形でしか提示されない。ここで、「あると断言できない」ということ(つまり帰無仮説を棄却できないということ)は、例えば、現時点ではあるとは言えないが「もっと良く調べたらあるかも知れない」という可能性を否定するものではない。そして、実際にもっと良く調べても、やっぱりあるとは言えないという結論に達したとしても、「もおっーと、もおっーと、良く調べたら、ひょっとしたらあるかも知れない」という可能性は残っていく。そういう理由で「ない」と断言することは、困難なのである。

Monday, February 9, 2009

まえがき(7)

斯様に想像力というものが、人類の相互のコミュニケーションにおいて、重要であるにも係らず、現代社会において、想像力の欠如というのは、極めて憂慮すべ き状態にあると言わざるを得ない。その理由をインターネットやマスメディアを通じた画像情報の氾濫に求むることが正しいかどうかについて、ここでの議論は 差し控える。それはまえがきには過ぎた役割であると信ずるからである。理由はどうあれ、想像力の欠如という現象は間違いなく、現代人を蝕んでいるというこ とは感じ取れる。しかし、それがどういう客観的根拠に基づく結果であるのかということをここで詳しく説明はしない。なぜなら、それは第一に私が感じとった 主観的判断に過ぎないので主観的判断に客観的根拠を求めることが矛盾であると思うからである。ここで、例えば、ユング的な集合的無意識的概念を持ち出し て、主観にも客観的根拠があって然るべきであると議論する読者の出現は大いに予想される。実を言えば、私も「同じ人間じゃないか、心は通じあう」みたいな 考えを支持するものである。しかし、これは逆説的であるが、人はその人生を生きるのはその人以外にないという事実、即ち、人間は絶対的に孤独であるという 前提があるが故に、人間同士は分かり合えるのだという込み入った事情があることを理解しておくべきであろうと思われる。想像力の欠如が現代人を蝕んでいる という感覚を支持する客観的根拠について議論しない第二の理由は、そう議論することがこのまえがきにも本文にも多大な関連があると想像できないからであ る。

Thursday, February 5, 2009

まえがき(6)

これで、そろそろ、まえがきが果たすべき役割は果たせたのではないかと想像するのだが、私の想像であるから、それが現実をどれほど反映しているのか、本当はわからない。私は想像力に比較的めぐまれている方であると思うが、想像力に乏しい人というのは現実に存在し、そういう人の想像力の欠如の程度を想像するのは、いくら想像力には自信のある私にも困難であることは容易に想像できる。故に、私が想像によって、想像力に欠如した人が私のこの文章を読んで、どれだけ納得してもらえたか、を推量するすることは、易しくない言わねばならぬ。即ち、それは私の想像力が乏しいのが原因ではなく、豊かな想像力を持ってしても、想像困難な想像力の欠如という状態におかれている読者の理解力を推し量るのは難しいと言っているのである。読書における想像力というのは文字の繋がりの中から意味を創出することであり、それなしに、書かれたものの理解はなりたたないという類いの資質である。よって、その欠如ゆえに文章を理解し得ない読者の無理解は読者の責任であって、私の想像力の及ぶところではないということである。更に言えば、前にも触れたように、読書というのは、書かれた文字という実体をきっかけに、読者がその想像力をもって、有機的な立体感ある何かを描き出すという共同作業であり、従って、読者が、このまえがきの役割を果たして正しく理解しているかどうかは、半分以上は読者の能力に依存する。私には、そもそも、その読者像が必ずしも分かっているわけではないので、私の想像力をもってしても、想像力の欠如した読者の割合やその程度、そしてその結果、おこるであろう無理解ののべ面積は想像不可能であると弁じたいのである。

Monday, February 2, 2009

まえがき(5)

と前節を書き終えたところで、「デクさん」の出典に、偶然、デクわした。柴田元幸という米文学者の書いた「生半可な学者」というエッセイの中の一節の中に紹介されていたのであった。なるほど、と読み直してみると、これは、別役実の本、「道具づくし」の中にある「おいとけさま」という道具の解説であることがわかった。おいとけさまは東北地方に伝わり、そこから「こけし」が派生した云々とあって、頷いて読んでいると、どうもこれは全部、別役実の作り上げたフィクションであるらしい。なお、家族でいったうなぎ屋で「並のうな丼」を頼むという話も、原典は、別役実の「私版悪魔の辞典」の「貧乏」の項で、貧乏の繊細さについて述べた一節である。ということで、前段の話は、文字となったフィクションが本という実在を経て、私の記憶の中で、事実と誤認されたものであったものであったことが分かったことをお断りしておく。
しかしながら、そもそも事実とは何であるか?虚構とは何であるか?虚構を思いついたこと自体は事実であると言える。また逆に、例え、「事実」と考えられているものであっても、その事象そのものをどこかにそのまま移すことは出来ないのだから、特に紙に書かれてしまったものは、誰かの眼なり耳なりといった知覚器官を通して捕えられた情報が更に脳での解釈というプロセスを経て提示される「間接像」であると捉えることが出来よう。従って、紙に書かれたものは既に「事実」そのものではあり得ない。そして、その文字化のプロセスにおいて、書き手の意識的、あるいは無意識的な修飾や省略を経たであろうことも想像に難くない。故に、「事実譚」として書かれたもの、語られたすべてのものには、読者の大多数が「実際に起こったこと」であると疑いを挟まぬであろうような事項に加えて、少なからずの虚構が交じっているといって間違いないであろう。まして、それを読んで解釈する読者にとっては、読み間違い、勘違い、解釈違い、さまざまな事故によって、今回の私のように、全くの虚構をある種の物理的に地上に存在したものを記述したものと誤認するようなことは、しばしば避けられないと思われる。しかし、一歩下がってみると、そもそも、ここで虚構というが、おいとけさまが本当に虚構であるとう証拠はないのである。これは、別役実がウソのかたまりの本を書いた(らしい)という認識によってのみ支持されている。確かに、民俗学者は「おいとけさま」や、鼻につめて修行(臭行)するという臭気を発する神品、「はなじごく」の実在を確認できない。しかし、後にも述べる通り、「確認できない」ということは「存在しない」ということを必ずしも意味しない。あるいはひょっとしたら、このような道具のプロトタイプのようなものは存在していて、別役実が意識的か、無意識にか、それを頭の中でふくらませた結果として、おいとけさまが生まれたのかも知れない。「虚構だから価値が低い、事実だから意味深い」との価値判断は、虚構と事実が水と油のようにきれいな境界をなして分離しているという思い込みから由来すると思う。あらためて言うまでもなく、虚構と事実は、特に過去について語る場合は(厳密には過去でないものについての事実を語ることは不可能であるが)、お互いの中にお互いを取り込むような形で混じりあっていると考える方が無難であろう。