Tuesday, February 17, 2009

まえがき(9)

例えば、数学のクラスにいない子が「今現在、数学の問題を解いていない」と結論できないことは自明である。クラスにいないことから分かる事は「数学の問題を解いているという証拠はない」ということだけである。だから本当は数学のクラスをさぼって校舎の屋上で、「ナビエ-ストークス方程式の解の存在と滑らかさ」についての考察を行っている最中かもしれないし、あるいは、やはり単にさぼって映画を見に行っているだけかもしれない。数学のクラスにいないということから、私たちは、単純に「またさぼって、映画でも見ているのだろう」という、より可能性の高い結論に安易に手を伸ばしたがるが、われわれはそこで一瞬、留まって、「証拠がない」ことは「ないことの証拠」にはならないということに意識的に注意を払うべきであろうと思う。「ない」ことをできるだけ厳密に言いたければ、多くのコントロールをとって、「あるとは言えない」という段階から「ない可能性がかなり高いと考えられる」というレベルまで持ち上げていかねばならない。そのためのコントロールは常に簡単に見つかるとは限らないし、多くの可能性を想像すればするほど、各々の可能性に対する数多のコントロールを用意しなければならない。よって、通常、単に「ない」という言明の多くは、「何かのあるべきものがあるべき所にない」という限定的な「ない」をはるかに超越したものであることが多く、よって、限定なしの「ない」という結論には常に弱みがあることに、われわれは意識的でなければならない。即ち、「ない」というnegativeな表現を肯定的に断言するという行為は、場合によっては、無数ともいえる「ない理由」の可能性の一つ一つを否定した末に茫洋と現れたものを確信的に捉えることであると私は定義する。したがって、私が「想像できない」と書いた事を持って、私が想像力の乏しい横着者であると早合点した読者には誤解がないように申し上げたい。私は横着者ではあるが、想像力は乏しくない(と少なくとも私は信じている)。更に言えば、私は想像力の豊かな横着者なのである。そして、このまえがきでも「です、ます」調では書かないという横着をしながら、あえて、言い訳がましいことを長々と書き連ねているというこの事実に、私の想像力と横着力のコンフリクトが発する摩擦熱を感じことのできる想像力豊かな読者も少なくはないであろうことを、現に私は想像できるのである。

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