Thursday, February 19, 2009

まえがき(10)

以上のように、書き手と読者との関係、読書における想像力の重要性について論じて来たわけであるが、それは、元を正せば、この「まえがき」が、続く本文が与えるであろう読者の不快感ならびに筆者に対する反感を多少なりとも軽減せんことを欲したゆえであることは文頭に述べた通りである。人が不愉快になるようなものをわざわざ書くぐらいならば、公けにせず、こっそり秘密の日記にでも記せば良かろうという意見が出てくることは自然であると思う。これは、永井荷風的「襖の下張」心理と脈を通ずるものであることは言うまでもない。然しながら、発禁覚悟で「四畳半襖の下張」の出版を断行した、野坂昭如の反体制気質とは趣を異にするものであると、念のため断っておきたい。「襖の下張」に反体制意識はない。それは繊細で多少屈折した純粋な表現欲の発露である。野坂はその芸術性ゆえに「襖の下張」が反体制に利用できると考えたに過ぎない。話をもとに戻そう。読者の不快を想定してとしてまえがきで予防線を張るという行為をあえて行うことは、本文がある種の純粋な表現欲の発露である場合は、正当であると考えられる。然るに、私自身は、続く本文が表現欲の発露であるという認識はない。私の筆が走るがまま、ごく自然に、書き付けただけである。読む人によっては、友だちに向かって「おまえのかーちゃん、デベソ!」と子供が叫ぶと同等の価値しか認め得ないことは十分考えられる。勿論、「おまえのかーちゃん、デベソ!」と叫ぶ行為に芸術性の一片を認め得る者のあることも想像に難くない。夕日に向かって、思いっきりこの言葉を叫ぶならば、それはただの安っぽいパロディーにしかならない。しかし、世界の中心で、誰に向かって言うわけでもなく、そしてそのシニフィエを超越した境地において、この言葉が詠われるならば、それは一編の詩である。「デベソ」という言葉が、背景から切り取られ、違った角度から眺められることによって、詩性は読み取られる。いうまでもないが、「デベソ」には内在的な芸術は存在しない。ポジションが「デベソ」を昇華させるのである。話をもとに戻そう。言わなければ何の問題にもならないことを、わざわざ言って、問題を作り上げておきながら、その問題を自ずから解決しようとするような態度は、仮に「襖の下張」的芸術性に貫かれていたとしても、やはり屈折している。この自己矛盾を私は、逆マッチポンブと名付けよう。あるいは、わが母校の軽音楽部の伝説のフォークグループの名に因んで、「いらんことしい」と呼んでもよい。火のないところに火をつけて煽っておいた上で自ら消火活動にあたり、その混乱に乗じて利己益を図るというのがマッチポンブなら、私のやっていることは、その行いによって、むしろ「不益を被る」可能性が高いという点で、確かに、やらない方がよい活動と言える。

No comments:

Post a Comment