Monday, February 2, 2009

まえがき(5)

と前節を書き終えたところで、「デクさん」の出典に、偶然、デクわした。柴田元幸という米文学者の書いた「生半可な学者」というエッセイの中の一節の中に紹介されていたのであった。なるほど、と読み直してみると、これは、別役実の本、「道具づくし」の中にある「おいとけさま」という道具の解説であることがわかった。おいとけさまは東北地方に伝わり、そこから「こけし」が派生した云々とあって、頷いて読んでいると、どうもこれは全部、別役実の作り上げたフィクションであるらしい。なお、家族でいったうなぎ屋で「並のうな丼」を頼むという話も、原典は、別役実の「私版悪魔の辞典」の「貧乏」の項で、貧乏の繊細さについて述べた一節である。ということで、前段の話は、文字となったフィクションが本という実在を経て、私の記憶の中で、事実と誤認されたものであったものであったことが分かったことをお断りしておく。
しかしながら、そもそも事実とは何であるか?虚構とは何であるか?虚構を思いついたこと自体は事実であると言える。また逆に、例え、「事実」と考えられているものであっても、その事象そのものをどこかにそのまま移すことは出来ないのだから、特に紙に書かれてしまったものは、誰かの眼なり耳なりといった知覚器官を通して捕えられた情報が更に脳での解釈というプロセスを経て提示される「間接像」であると捉えることが出来よう。従って、紙に書かれたものは既に「事実」そのものではあり得ない。そして、その文字化のプロセスにおいて、書き手の意識的、あるいは無意識的な修飾や省略を経たであろうことも想像に難くない。故に、「事実譚」として書かれたもの、語られたすべてのものには、読者の大多数が「実際に起こったこと」であると疑いを挟まぬであろうような事項に加えて、少なからずの虚構が交じっているといって間違いないであろう。まして、それを読んで解釈する読者にとっては、読み間違い、勘違い、解釈違い、さまざまな事故によって、今回の私のように、全くの虚構をある種の物理的に地上に存在したものを記述したものと誤認するようなことは、しばしば避けられないと思われる。しかし、一歩下がってみると、そもそも、ここで虚構というが、おいとけさまが本当に虚構であるとう証拠はないのである。これは、別役実がウソのかたまりの本を書いた(らしい)という認識によってのみ支持されている。確かに、民俗学者は「おいとけさま」や、鼻につめて修行(臭行)するという臭気を発する神品、「はなじごく」の実在を確認できない。しかし、後にも述べる通り、「確認できない」ということは「存在しない」ということを必ずしも意味しない。あるいはひょっとしたら、このような道具のプロトタイプのようなものは存在していて、別役実が意識的か、無意識にか、それを頭の中でふくらませた結果として、おいとけさまが生まれたのかも知れない。「虚構だから価値が低い、事実だから意味深い」との価値判断は、虚構と事実が水と油のようにきれいな境界をなして分離しているという思い込みから由来すると思う。あらためて言うまでもなく、虚構と事実は、特に過去について語る場合は(厳密には過去でないものについての事実を語ることは不可能であるが)、お互いの中にお互いを取り込むような形で混じりあっていると考える方が無難であろう。

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