Thursday, March 5, 2009

まえがき(14)

以上から導き出される結論は、「いらんことしい」は、一握りの、大衆ではない者たちの特権であるということである。周囲のその他大勢と同じであることに価値を認めず、その他大勢から村八分にされることに恐怖を感じない、そのような誇り高い超人にのみに与えられた特権である。あるいは、ほとばしる「生」のエネルギーを自ずから一人、素手で掴もうとせんが如くである。さもなくば、大衆が周囲の者と同様に行動するという矩に従って、大衆が一斉に「いらんことしい」を始めたら、その行為の汎在性によって、「いらんことしい」が「いらんことしい」で無くなってしまうというパラドックスに落ち入ってしまう。携帯電話を思い浮かべてみよ。私は携帯電話を持っていない。携帯電話が発明される前から、私は電話で相手の顔を見ることなく人としゃべるということが嫌いであったから、電話は余程の必要が無い限り使わなかった。そんな私にとって、スーパーや道ばたなどの公の場所で、わざわざそこに居ない誰かに電話をすること自体、「いらんことしい」である。公けの場所で考え事をしている時に、横にいる他人が電話でどこかに遠く離れた人間と話し出したりすると、迷惑である。然るに、国民の大多数が、電話を携帯し、ところ構わず携帯電話を愛する同胞たる大衆に電話をかけるという行為が近年かくも一般化したため、その汎在性によって、大衆にとっての携帯電話で会話をするという行為は、すでに「いらんことしい」で無くなってしまった。公の場所でところ構わず、電話をするという行為そのものが変化したのではなく、「いらんことしい」を判断する大衆の基準が変化したのであり、その理由は、「皆がやっているから」である。「皆がやっているから」という理由で、ポイ捨てしたり、赤信号を無視したりしてはいけないと、私は学校では教わった。にもかかわらず、「皆がやっていることが正しい」とする大衆の価値基準は、「誰も、学校で教わった正しいことは守っていない(だからこそ、学校で教えるとも言えるのであるが)」という認識によって、「ある種の正しいことを行うことは正しくない」という矛盾語法が瞬時にして正当化され、「正しさ」はダイナミックな大衆の行動規範によって、常に上書きされてしまう。ならば、大衆とは赤信号を皆で渡る者であると定義してもあながち誤りにはなるまい。

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