Monday, March 16, 2009

まえがき(17)

私がスキーを始めたのは社会人になってからである。それまで、高校一年で習った物理法則のために、スキーというスポーツに強い偏見を持っていた。
「位置エネルギーは運動エネルギーに変換可能である」
スキーをするには、電気などのエネルギーを大量に消費しながら、リフトを動かし、スキーヤーを山の上までまず運ばねばならない。このことによって、スキーヤーの位置エネルギーは、まず上昇する。スキーヤーが斜面を滑り降りるにしたがって、位置エネルギーは運動エネルギー等へと変換されて徐々に減少し、麓についた時点でゼロとなる。スキーヤーはまたリフトにのって滑り降りるのを繰り返す。この一連のプロセスにおいて、ある任意のスキーヤーに着目し、位置エネルギーを縦軸に時間を横軸にしてグラフを描けば、ある一定の位置エネルギーの範囲を単調に往復するような波線を描くであろう。線はまず上昇し、頂点に達したあと、徐々に下降する、再び上昇し下降する、それを繰り返す。スキーを始める前の私のスキーというスポーツに対するイメージをあえて言葉にするならば、「位置エネルギーの周期的上昇と下降」であったと言えよう。これは、例えるならば、「人間」とは「下水管に目鼻」であると単純化することに近いかと思う。真理には違いない。人間が下水管であるという観点から、管の上に入れたものが下から出てくるのなら、最初から入れなくても同じじゃないか、という意見は無論、正しい。同様に、スキーが位置エネルギーの周期的変動の後にゼロになるなら、最初から麓のロッジの暖炉の横で、暖かいコーヒーでも飲みながらじっとしていても同じではないかという意見も正しい。更に言うならば、人間、いつか死ぬのだから、最初から生まれて来なくてもよい、という意見も当然である。大衆が「いらんことしい」に向ける冷たい視線には、大衆が恣意に(しかも無意識に)取っているこうした視点が与える価値観によって支えられている。「いらんことしい」が昔の無邪気さで「いらんこと」をする自由は、もう殆ど失われてしまった。スキーというものを知らず、スポーツや野外活動の楽しみを全く理解しないが、エネルギーの無駄には極めて感受性が高い、というような部族が存在したとして、彼らに、なぜスキーが楽しいのか納得できるように説明するときのことを考えてみよ。「太陽がまぶしかったから」という理由でさえ、「いらんことしい」の自由な精神にとっては、充分、煩わしい。「いらんことしい」が大衆の非難の視線の中で、そのアイデンティティーを損なわないために、それを積極的に守るという行為が現代では、不可欠となってしまっている。それが、ムルソーの司祭への「人は皆、特権者であり囚人なのだ」という叫びに象徴されていると言えよう。

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