Monday, March 2, 2009

まえがき(13)

「いらんことしい」のない世の中を考えてみよ。それは、喩えて言うならば、クリープを入れないコーヒーとクリープを入れたコーヒーを、違いの分かる男が飲み比べて「違わぬ」と断言するほどに、味気ない世界である。蛇足を承知で付け加えさせていただくが、ここにおいて、クリープは「いらんことしい」のメタフォアであると捕えてはならない。「クリープを入れても入れなくても違わない」という、(クリープの身になってみれば)外部世界からの絶対否定、存在の拒絶、言いようのない虚しさ、やるせなさ、そういった機微を無神経に無視することによって達成される、スムーズできれいな世界、それが「いらんことしい」のない味気ない世界であると言っているのである。即ち、「いらんことしい」は存在の悲しみである、たとえば狐の革ごろもである。無いからといって、なぜ困るのか、言葉にしにくい。しかし、あるいは、それこそが、人間と動物を、貴族と市民を、超人と畜群たる大衆を、分けているものの正体なのではないのか。大衆は周囲の人間と同様であることという相対的かつ表面的な特性に価値を求めながら、その根拠に意識的でない。にもかかわらず、その価値判断基準に極めて高い自信を持った存在である。一方、超人たる貴族は「いらんことしい」である。それは、その他大勢と同様であるという状態に価値を認めないからである。一方、逆に、トイレに醤油瓶を流してトイレを詰まらせるという行為に、大衆は価値を認めない。なぜなら、同胞たるその他大勢の人々はトイレに醤油瓶を流さず、同胞たるその他大勢の人々が流すと同様のものを流したがるからである。このトイレに決まったものを流し続けるという行為において、大衆には、トイレがそもそもそういう目的のために設計されているという歴史的事実に、すでに自覚的でない。大衆は、単に、周囲の皆がそうするからという理由で、トイレに皆と同じものを無批判に流し続けるのだ。だから、トイレに自分たちが流すものと違うものを流すと、批判し、後ろ指を指し、村八分にする。自らと異なるものを村八分にするという行為そのものが、痛烈な大衆自身の自己批判となっていることに、大衆は悲しくも気づかない。

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