Saturday, January 24, 2009

まえがき(2)

書き手と読者が言外のメッセージを読みとるためには、文化的教養を共有することが不可欠である。書かれてある文字列を、暗喩される特異的なコンテクストに入れて解釈することによって、行間は読まれる。「ぶぶ漬けでもどうどすか?」と京ことばで聞かれて、「いただきます」という答はあり得ない。山といえば川、ツーと言えばカーが頭に浮かぶことを書き手は期待している。読者はその意図を汲み、行間に隠された流れを先取りして読み進む。そうして、書き手と読者とのコラボレーションが何らかの意味を動的に創出すること、それが読書と言う作業と言って良い。あるいは、書かれたものと書かれていないものが読者の中で有機的結合を遂げる時に読書が成立すると言い換えることも可能であろう。その点、科学研究者の中には、勧められたら、喜んで、ぶぶ漬けをおかわりするような輩が少なくない。彼らは文章を文字通りに読む訓練を積んで来ている。だから科学論文は、中学一年の英語の教科書のような文章で書かれるのである。一つの文には主語と述語は一つずつ、長い文は二つ以上に分ける、例え話をしてはいけない(本気にされるから)。言いたいことが、字面に書いてあるそのままに過不足なく表されていて、どこの誰が読んでも読み間違えないこと、などに最も注意して書かれる(そうでなければ、レビューアにいじめられるから)。一方、明らかに言外のメッセージを読み取っておきながら、わざと気づかぬふりをするような意地の悪い者もある。これは、ヤクザが言質をとって善良な一般市民を脅すのと同類である。ともあれ、私はここに断言しておきたい、私はヤクザの脅しには屈しない、と。

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